毎月末には詩編を続けて読んでいます。この4編は翻訳上の課題のある詩編 と言い得ます。2節は「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさ を認めてくださる神よ」ですが、二行目の原文は「私の義なる神」です。新共 同訳のように訳しますと、私が義=私が正しいとなってしまいますが、それは 問題でしょう。神様が義である(=神様として正しく私たちの祈りや願いを必 ず聞いてくださり、答えてくださる)からこそ、私たちは「呼び求める」ので はないでしょうか。それ故、4節の「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、 呼び求める声を聞いてくださると知れ」も、自分の弱さや愚かさをよく知って いるから、神様に頼るしかない者のことを「主の慈しみに生きる人」というの であって、決して自分の正しさを主張する者のことではないはずです。 この詩編は昔から《夜の祈り・晩祷歌》とされて来ました。それは5節の 「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。」 という言葉から発しています。ここの「おののいて」も「怒ることがあっても」 とも翻訳できる言葉です。むしろこちらの訳の方が伝統的だと言えます(エフ ェソ書4章26節)。まさに夜眠りにつこうとしたけれども、昼間の出来事を思 い出すと怒りが収まらない、あの人の言葉や態度を許せないと。しかし、寝床 に入って「自らの心」にそんなに怒るなと語り掛けて、ゆっくりと心を静めよ と教えてくれている言葉だからです。その上で「ふさわしい献げ物をささげて、 主に依り頼め。」と。このふさわしさとは神様が喜んでくださるという意味で あり、そのような献げ物とは讃美であり感謝の祈りでしょう。そして「主に依 り頼め」とは、その出来事の解決はもう神様にお任せなさいと。その時、怒り は収まり、何とかゆっくり眠れることが可能になるということです。教えられ ます! 説教集インデックスへ戻る