主の日の礼拝を献げていたヨハネは「後ろ」からの声を聞きました。その時、 彼は「語りかける声の主を見ようとして振り向いた」のでした。おそらくその 声が聞き覚えのあるイエス様の声だったからでしょう。あのイエス様が再び自 分の側に来て下さった、その嬉しさと懐かしさで思わず振り返ったのではない でしょうか。 ただ、振り向いて目にしたイエス様の姿は、かつて一緒に旅をした時のみす ぼらしい姿ではなく、むしろ「足まで届く衣(=大祭司)を着て、金の帯を締 め(=大王)、口からは鋭い両刃の剣が出て(=大預言者)」おられる、まさ に天のキリストの姿でした。故に、振り返って主を見てしまった自分の軽率さ と愚かさで「足もとに倒れて、死んだようになった」のでした(旧約聖書では 神様を直接見たものは死ぬとも言われていますから)。 しかしそんなヨハネをイエス様は裁くどころか、叱責されることもなく「右 手を置いて『恐れるな』」と言われたのでした。@『恐れるな』という言葉は イエス様が本当によく使われた言葉です。まさにイエス様は、姿は変わっても 同じ私だよと示されたということでしょう。特に、A右の手を置く行為は、か つて棺に手を置かれて、死んでしまった子供を生き返らされたことがあったよ うにその御力を注ぐ行為です。「死んだようになった」ヨハネに再び御力を注 ぎ込まれたと見做せます。その上で『さあ、見たこと、今あることを、今後起 ころうとしていることを書き留めよ』と新しい使命を与えられたのでした。こ れは「右の手を置く」ことが、新しい務めに任命するための行為であったとも 言い得ます。この行為を今でも教会は洗礼式や按手礼式等で用いています。そ れは何よりキリトの御力による新しい使命への任命式なのです! 説教集インデックスへ戻る