本日の箇所でパウロは「何度も言って来たし、今涙ながらに言いますが、キリス トの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びで す。彼らは腹を神とし、この世のことしか考えていません」と辛い思いを吐露して います。ここで厳しく言われている人達は一般の信徒たちではなく、むしろ指導者 たちです。彼らが人々に誤った福音を伝えていることがとても辛く、悲しいと言っ ているのです。 「十字架に敵対する」とは《十字架に背を向ける》という意味で、主の十字架によ る罪の贖い、信仰によって義とされるというキリスト教の根本信仰を意図的に避け たり、敢えて言わない態度です。現代でもエホバの証人やモルモン教の教えに見受 けられます。なぜ、イエス様の十字架を省こうとするのでしょうか? それは十字架のことを言わない方が合理的で分かり易いからです。恵みによって 罪が赦されるという信仰は難しく、つかみどころがないと感じているからです。故 に、私たち教団の牧師の中にも十字架のことや罪の赦しを除いて説教や信仰を語る 指導者もいるのです。彼らは「自分の腹(=自分の考えや欲望)」を「神としてい る(=主人としている)」のではないかと。そのままだと最後は「滅び(=神様か ら裁かれる)」だと。 ただ間違ってはいけないことは、パウロはその誤っている指導者たちを批判し断 罪し「裁かれてしまえ」と言っているのではありません。むしろ「涙ながらに」に 語っています。それは『どうしてそうなってしまうのか』『なんとか立ち戻ってく れないだろうか』と心から残念に思いながら、そこで彼らの救いのために祈ってい るからこそ「涙」となるのです。私たちにも『どうして離れてしまったのか』と思 う人達やかつての仲間や家族たちがいます。批判して裁くのでなく、涙ながらに祈 っていく人たちなのではないでしょうか。 説教集インデックスへ戻る