8月11日
2019年8月11日

「平和聖日−平和を求める祈り」
 武田 真治 牧師  エレミヤ書 29:11-14A、ヨハネの黙示録 22:18-21


《平和》について、信仰を持つキリスト者として聖書基づき2つのことを踏まえて

おきたいと願っています。

一つはエレミヤ書にある「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留

めている、と主は言われる。それが平和の計画であって、災いの計画ではない。将

来と希望を与えるものである」です。神様は私たちに災いと下そうとされるのでは

なく、平和であってほしいと願われ、そのように導こうとしておられると。イエス

様の「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」という

教えに通じます。そして、その際に《平和》は「将来と希望を与えるもの」である

と言われています。原文では(終わりへとつながる希望)という意味で、ここには、

過去ばかりを振り返ることでは《平和》は実現しない、未来への希望があってこそ

《平和》は実現するという聖書の根本的な考えがあります。

もう一つが、その(終わりへとつながる希望)こそイエス様の再臨であるという信

仰です。黙示録の「以上すべてを証しする方(=イエス様)が言われる、『然り。

わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」に現われています。

信仰者と社会活動家との根本的な違いがここにあります。私たちは究極的にはイエ

ス様がこの世界に来てくださらないと《平和》は完成しないと考えています。人間

の力では完璧な平和をこの世に実現することは出来ないと。しかし、社会活動家は

自分たちの思想やプログラムに沿えば必ず完璧な平和が実現できると考えており、

この点で袂を分かつのです。自分自身との平和、隣人との平和も、自分の力だけで

はとても実現できません。主が来て下さってこそなのです。故に今ここに『主よ、

来たりませ』と祈り願うのです!
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