ドラマのような人生を歩んで来た人や驚くようなキリストとの出会いを経験して いる人は何か機会があればその経験を人々に紹介したいと思うのが普通ではないで しょうか。この手紙を書いているパウロさんも劇的なイエス様との出会いを経験し ている人物でした。故に何かと自分のことを話していたかと言えば、そうではなか ったようです。むしろ極力、キリスト者以前の歩みについては話さなかったようで す。もし彼がフィリピの教会の人達にあらかじめかつての自分の経歴や立派さにつ いて話していたなら、今回教会の中に入り込もうとしたユダヤ人伝道者たちのこと を、フィリピの人達は『パウロさんに比べたら全然大したことない』と相手にしな かったことでしょう。その経歴から言えばはるかにパウロの方が生粋のユダヤ人だ ったからです。今日の箇所で初めてのように、キリストを知る前の自分について語 っているのは、ユダヤ人伝道者たちが来ることが想定外であり、もう少し自分のこ とも語っておくべきであったという後悔の念もあったからだと言い得ると思います。 その上で彼は、かつて自分にとって人間的に有利だと思っていたものを「キリスト を知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と堂々 と告白しています。良い生れや血筋、高度な教育を受けて来たこと等はすべて「肉 (=この世)」的なものであり、それらを誇る者たち(=ユダヤ人伝道者)は「霊」 的に生きているとは言えないではないかと。 このパウロの言葉は、私たちがこの世的なものを一切棄てて生きなければならない と言われているのではありません。しかし、イエス様が自分にとっては「主である (=一番である)」という生き方をしていくのが、信仰者の生き方であるというこ とを言おうとしているのです。 説教集インデックスへ戻る