6月30日
2019年6月30日

「フィリピJ−たとえ血を注いだとしても」
 武田 真治 牧師  フィリピの信徒への手紙 2:15-18


 私たちは各々何かしらの「誇り」を持って生きています。その誇り(=プライド)

があまりにも勝手に高過ぎると困った人になってしまいますが、誇りあるからこそ、

自分らしくしっかりと生きることが出来る、プライドが生きる支えになっているこ

とも多いと言い得ます。

 今日の箇所にはその「誇り」という言葉が出てきます。「わたしは、自分が走っ

たことが無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」です。

ここで「誇り」と訳されている言葉は、ギリシア語の(カウケーマ)という言葉で、

これは心の底から喜びが沸いてくるものという意味です。

 従って、聖書の言う「誇り」とは、他人と比べて立派だ、優れていると感じる自

慢する心や優越感ではなく、自分の人生を通して特に重んじて来た、生きる上での

原動力のようなものなのです。

 ここでパウロは、「キリストの日(=死んだ後に自分が復活する日)」に、イエ

ス様の前に出た時に、恥ずかしくない生き方をして来ましたと報告できるように自

分は生きている、それが彼の原動力=誇りだと述べているのです。そして、その恥

ずかしくない生き方とは、イエス様のことを人々に伝道しながら信仰を全うするこ

とでした。それが15節の「世にあって(=天の光を地に注ぐ)星のように輝き、命

の言葉をしっかり保つでしょう」と言われている事柄です。

 翻って、何を私たちは喜びとして人生を生きているのでしょうか、何を生きる上

での原動力としているでしょうか、考えさせられます。パウロはそのためなら「た

とえわたしの血が注がれる(=殉教の死)としても、わたしは喜びます。」とまで

言い切っています。このことは、自分の命を懸けても惜しくないと思えるほどの誇

り(=生きる原動力)を持つことができることを私たちに教えてくれていると言い

得ます。
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