私たちは各々何かしらの「誇り」を持って生きています。その誇り(=プライド) があまりにも勝手に高過ぎると困った人になってしまいますが、誇りあるからこそ、 自分らしくしっかりと生きることが出来る、プライドが生きる支えになっているこ とも多いと言い得ます。 今日の箇所にはその「誇り」という言葉が出てきます。「わたしは、自分が走っ たことが無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」です。 ここで「誇り」と訳されている言葉は、ギリシア語の(カウケーマ)という言葉で、 これは心の底から喜びが沸いてくるものという意味です。 従って、聖書の言う「誇り」とは、他人と比べて立派だ、優れていると感じる自 慢する心や優越感ではなく、自分の人生を通して特に重んじて来た、生きる上での 原動力のようなものなのです。 ここでパウロは、「キリストの日(=死んだ後に自分が復活する日)」に、イエ ス様の前に出た時に、恥ずかしくない生き方をして来ましたと報告できるように自 分は生きている、それが彼の原動力=誇りだと述べているのです。そして、その恥 ずかしくない生き方とは、イエス様のことを人々に伝道しながら信仰を全うするこ とでした。それが15節の「世にあって(=天の光を地に注ぐ)星のように輝き、命 の言葉をしっかり保つでしょう」と言われている事柄です。 翻って、何を私たちは喜びとして人生を生きているのでしょうか、何を生きる上 での原動力としているでしょうか、考えさせられます。パウロはそのためなら「た とえわたしの血が注がれる(=殉教の死)としても、わたしは喜びます。」とまで 言い切っています。このことは、自分の命を懸けても惜しくないと思えるほどの誇 り(=生きる原動力)を持つことができることを私たちに教えてくれていると言い 得ます。 説教集インデックスへ戻る