私たちは普段、何かの長さを測ったり、その長さを比べたりする時に「ものさし」 を使いますが、私たちの頭の中には「見えないものさし」もあります。それは何か の出来事や人を評価するときに、自分なりにその判断の基準としている「ものさし」 です。その頭の中にある「ものさし」によって、良いか悪いか、為すべきか止める べきか等を判断しています。そのような「ものさし」は今まで生きて来た中で、親 から言われて来たことや自分が見聞きしてきたこと、経験したことによって培われ、 形作られてきたものだと言い得ます。しかし、時にはこれまでの自分の「ものさし」 には合わない、或いは越えてしまう出来事や事態が生じてしまい、どうすれば良い のか途方に暮れてしまうということも現実には起こってきます。まさに、そんな時 こそ私たちを裏切らないでしっかりとした判断や基準を提供してくれるものが 「聖書」ではないかと思います。 今日の聖書の箇所にこの「ものさし」という言葉が出ています。それが「このよ うな原理に従って生きていく人の上に、平和と憐れみがあるように」の言葉の中の 「原理」という言葉が(カノーン)であり、この言葉がもともと「ものさし」とい う意味なのです。そしてこの言葉が後に『正典(カノン)』を意味するようになり ました。まさに聖書は私たちの信仰の「ものさし」であるだけでなく、人生の「も のさし」ともなるのです。その意味でこそ、聖書が私たちにとって本当の正典とな ると言い得るのでしょう。クリスチャンとは、まさに「このような原理に従って生 きていく」人々であり、そのような者たちの上には必ず神様からの「平和と憐れみ」 が注がれるのです。逆に言えば、聖書を単なる読み物や小説、研究書のように扱う 人には、そのような神様からの平和と憐れみは注がれることはないのですから。こ れはとっても大切な、はずしてはいけない原理だと思います! 説教集インデックスへ戻る