「信仰とは」と始まるこの箇所は、今さらと思われる内容かもしれません。しかし、 このようなキリスト者の誰もが深く考えさせられる内容を、「学びほぐし」「編み直 す」(鶴見俊輔さんの表現・川本隆史さんの文章からの紹介)必要があるように思わ れます。そうして我々の血となり肉となる信仰が形成されると思うのです。 ヘブライ人への手紙第11章はキリストに付き従おうとするキリスト者を鼓舞します。 どのような難問に逢着しようとも主イエス・キリストによって約束されている希望を 忘れないようにと。そのような歩み方を旧約聖書に見出すのです。そこに登場する多 くの証人の歩みを見つめ、過去の人たちの信仰の姿を常に思い起こすことによって、 キリストに従い続ける鞏固な意志を信仰によって保つことが可能となるのです。 ここで描写されている生き方とは迫害に忍従する姿です。不撓不屈の精神とも言え るでしょう。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が齎した神の力と確固たる 約束に対し揺らぐことなく突き進んでいく姿です。それが可能となるのは、信仰の本 質を捉えているからです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確 認することです。」このような信仰は主イエスを通してこの唯一まことなる神と出会 うことによって起こされるのです。そしてそれはキリストによって現実となった復活 の希望を確かなるものとし、肉体の目には不可視的な事実を確証させるものであるの です。 聖書は、この神と出会い、この事実に気付かされ信仰によって歩んできた者たちに 満ち溢れています。彼らはその「信仰のゆえに神に認められた」のでした。「信仰が なければ、神に喜ばれることはできません。」そのように語る時に、神は我々にご自 身の御心を示し、我々の生命を憐みの内にどのように用いようとなさっているのかを 示されます。御子イエスによってご自身を啓示された神は、ご自身の言葉を信じる者、 ご自身を呼び求める者に報いてくださるのです。 「今」という我々の時代において、我々は再びこの「信仰によって」という歩み方 を見つめ直す必要があるように思います。改めて「学びほぐす」ことで、生きた信仰 生活を「編み直す」ことができるのではないでしょうか。新たな年度を迎えるにあた り、今一度、主イエス・キリストによって示されている我々の希望を確証し、我々に 与えられているこの生命を主のために信仰によって歩ませていただきたいと祈り願う のです。 説教集インデックスへ戻る