2月10日
2019年2月10日

「キリストに結ばれて」
 木村 太郎 牧師  イザヤ書 27:2-6 ヨハネによる福音書 15:1-10


 救い主イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木」(ヨハネによる福音書15章5節)

とおっしゃいました。

 なぜ「ぶどうの木」であるのでしょうか。りんごの木でも、柿の木でも、また、梨

の木でもよかったのではないかと思わなくはないのです。

 しかし、ぶどうの木というのは、伝統的に特別な意味を持っていました。それは、

神さまによって選ばれ、祝福されたイスラエルの民を指し示すというものです(イザヤ

書27章2?6節)。勿論、キリストご自身もそのことをよくご存知でありました。

 しかし、とても不思議です。それは、ここでキリストが、「あなたがたはぶどうの

木である」とおっしゃったのではないということです。

 周りにいた人々は驚いたはずです。人々は、旧約聖書時代の伝統に従い、「芽を出

し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす」(同章6節)ぶどうの木は、イスラエル

の民を指し示すことを知っていました。ですからキリストの口から、「あなたがたは

ぶどうの木である」という言葉を予期していたのです。

 キリストご自身が、ぶどうの木そのものであるはずはないのです。キリストは、あ

くまでも、ぶどうの木を養う立場、ぶどうの木の番人であるべきなのです。キリスト

は、「常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る」(同章3節)方

であるはずなのです。

 しかし、キリストはおっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその

枝である」。キリストご自身が、ぶどうの木の立場に身を置かれるのです。キリスト

ご自身が、ぶどうの木であり、そして私たち人間は、その木の枝としてキリストにつ

ながるのです。

 ここでキリストは、教会のことをお語りになっておられるのです。教会の中心に、

キリストご自身がおられるということです。ぶどうの木としてのキリストは、教会の

歩みの中心に立ち続けてくださるのです。そして、私たちひとり1人は、その周りに

集められ、枝としてキリストにつながらせていただくのです。

 そしてそれは、キリストが私たちひとり1人を、恵みをもってとらえ離さないとい

うことです。私たちは、キリストがこの群れの中心におられると信じることを通して、

自己中心の罪から解き放たれ、その方にとらえられている幸いと平安をいただくこと

ができるのです。


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