1月27日
2019年1月27日

「この最後の者にも」
 藤掛 順一 牧師  詩篇 23:1-6 マタイによる福音書 20:1-16


「ぶどう園の労働者のたとえ」において主人がぶどう園を経営している目的は、

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節)

という言葉にはっきりと示されています。彼は人々を自分のぶどう園に雇い入れるこ

とによってその生活を成り立たせようとしているのです。だからこそ夕方の5時にな

っても人を雇い入れたのです。自分のぶどう園で働いた全ての者とその家族が必要な

糧を得られるようにしたい、という思いのゆえに彼は「自分のものを自分のしたいよ

うにして」いるのです。これこそが神の思いであり、この神のみ心にこそ人間の救い

がある、と主イエスは言っておられるのです。

 このたとえ話の結論は、「後にいる者は先になり、先にいる者が後になる」(16節)

です。この結論は、最後に来た者から先に賃金を支払うようにという主人の命令から

来ています。主人はなぜそう命じたのか。それはこの賃金が「働きへの報酬」ではな

いことを示すためでしょう。神の救いは、私たちの働き、功績への報酬としてではな

く、ただ神の恵みによって与えられるのです。それは人間の常識に反することだから

文句が出ます。最初に雇われた人たちは、後にいる者が先になる不公平に我慢がなら

なかったのです。しかし主人がしているのは恵みに満ちた不公平です。弱い者が苦し

められる不公平ではなくて、公平の原則の下では十分な糧を得られないはずの人たち

が、主人の恵みによって必要なものを与えられているのです。私たちの救いは、この

神の恵みに満ちた不公平によってこそ与えられています。もしも神が「後の者は後、

先の者は先」とおっしゃったなら、私たちの誰も救いを得ることはできないのです。

 夕方の5時から一時間働いて1デナリオンをもらった人は、夜明けから働いた人よ

りも得をしたのでしょうか。いや、夜明けにこの主人と出会い、この主人のぶどう園

で働くことができた人たちこそ、本当に幸いな人なのではないでしょうか。彼らは確

かに「まる一日、暑い中を辛抱して働き」ました。神を信じて生きることには苦労も

あります。しかしそれは希望のある、主イエスの十字架と復活による罪の赦しと永遠

の命が約束されている苦労です。神のぶどう園には、業績の査定もリストラもありま

せん。独り子イエスの命をすら与えて下さる恵みによって、神は私たちに必要な一デ

ナリオンの救いを与えて下さるのです。この神の下で生きることにこそ、本当に喜ば

しい人生があるのです。

説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る