教会の暦では待降節から新しい年度が始まる。これに対して、11月は教会暦の最 後にあたる。キリスト教会ではこの時期、終末について考える伝統がある。終末と は世の終わりの時のことだが、「終わり」と言うと恐ろしいような響きがある。し かし、本日のテサロニケの言葉に聞くとその限りでないことが分かる。Tテサロニ ケ4章には主の再臨の事が書かれている。「…主御自身が天から降って来られます。 すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わた したち生き残っている者が、空中で主と出会うために…このようにして、わたした ちは、いつまでも主と共にいることになります。」とある。わたしたちにとって終 末とは、わたしたちの罪を背負い十字架で死なれ、三日目によみがえり、その40日 後に天へと昇られた、あのイエス様が、再びこの地に来られ、わたしたちを迎えて 下さることである。そこに神様の国が完成されるのである。天地創造の時に、神様 はまず光をお創りになり、そしてその恵みの光の中で、全ての生きものを創ってく ださった。世の終わりの時には、神様はその光で全てを照らし出し、全て造られた ものを新たに造り変えてくださる。その光は、わたしたちキリストに結ばれたもの にとってキリストの光であり、復活の時であり、神様の国、つまり神様の恵みのご 支配を完全な姿で体験する時なのである。 この終末の主の再臨の時を待つわたしたちには、全く困難や葛藤が無いのではな い。パウロの時代には当時のユダヤ教指導者やローマ帝国からの迫害があり、その 苦しみにおいて主の再臨が大きな慰めとなった。今日でも、変わる事のない一つの 戦いがある。それがわたしたちをキリストから引き離そうと誘惑する悪との闘いで ある。「あなたがたはすべて光の子、昼の子」に始まり、「目を覚まし、身を慎ん で…信仰と愛を胸当てとして付け、救いの希望を兜としてかぶり…励まし合い、お 互いを建て上げなさい」と勧めるパウロの言葉は、キリストの十字架の罪の恵みに 結ばれたわたしたちが、神の御言葉に絶えず聞き、その御言葉に留まること、また その共同体である教会の大切さを訴えている。「主と共に生きる」ことは、わたし たちには課題でもあり、また恵みでもある。主が共に居て下さる。しかし、わたし たちもその主を見上げて従うのである。主が既に備え整えて下さった恵みを、わた したちは聖霊の助けを得て、感謝し、祈り、喜んで受け取ってゆく歩みとさせて頂 こう。 説教集インデックスへ戻る