フィリピの信徒への手紙を書いたとき、パウロは囚われの身でありました。監禁さ れている状態にありながら、この手紙は喜びにあふれています。フィリピの教会の誕 生のときから関係を保ち続けているパウロにとって、信徒たちがはじめのころと変わ らずに信仰生活を続けていることが何よりの喜びなのです。信仰生活は、洗礼を受け て始まると言っていいかと思います。洗礼を受けて、イエスを救い主と信じます、と 告白したその信仰は、その後、生活のあらゆる場面で、どんなことがあってもそばに あるものとして、自分で大切に持ち運ばなければなりません。洗礼を受け、信仰告白 をすることは、信じることに責任を負うということです。また、信仰生活は、神が支 え導くものであることを確認したいと思います。 ヨシュア記のシケム契約のあとに続く世代が捨ててしまった主に従う歩み、また、 わたしたちが生活の変化の中で教会を離れ、信仰を忘れてしまったらどうなるのでし ょう。パウロは言います「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イ エスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」 パウロは、たとえわたしたち人間が神から離れるようなことがあっても、善い業、 すなわち福音の種を蒔かれた方が、必ず最後まで導いて、福音の花を咲かせ、その実 を与えて下さることを確信する、というのです。わたしたちにいのちを与えて下さる 神は、わたしたちに信仰も与えて下さったのです。だから、キリストの日に、救いは 完成するのです。わたしたちであれば、自分が始めたことを途中であきらめて、やめ てしまうことがあるかもしれません。でも、神が始められたことを途中で投げ出すは ずがないのです。人間がどんなに愚かに罪を繰り返しても、神はさらにその先にある 神の国の完成に向かって進んでいるのです。神の救いの計画を、人間が止めることな ど出来るはずがないのです。なぜそこまでしてくださるのか、神がわたしたち人間を 愛してくださるからです。神が成し遂げてくださる、その一言に尽きるのです。すべ てのわざに先立って、神の愛があるのです。この神の愛によって、わたしたちは迷い の中から見出され、生きる者とされたのです。その「愛」がますます豊かになるよう に、とパウロは願っています。フィリピの教会に、神の愛が不足しているわけではあ りません。いまある教会の交わりに加えて、ますます豊かに愛が満たされるようにと の祈りです。 神の愛はわたしたちが求めるより先に、わたしたちのそばに与えられています。尽 きることのない、神の恵みをいただいて、礼拝をささげ、信仰の歩みを確かなものに していきたいと思います。 説教集インデックスへ戻る