マリアは、「純粋で非常に高価なナルドの香油」をキリストの「足に塗り、自分の 髪でその足をぬぐ」いました。彼女自身、自分自身が手にしていたものの価値を知っ ていました。しかし、その価値に捕らわれることなく、そこから自由でありました。 この自由な姿とはどこから来るのでしょうか。ユダの姿とは正反対です。ユダは、 香油の価値に執着し、お金という物に捕らわれていました。それに比べて、ここでの マリアは、人一倍気前のよい人であり、寛大な心を持っていた人であったかのようで す。 しかし、ここで示されているのは、そのようなマリアの人柄ではなく、キリストの 恵みのご支配の下に生かされた1人の人間の姿なのです。マリアは、その恵みをラザ ロの復活の出来事からいただいたのです(11章)。 日々の生活の中で、私たちを様々に捕らえ離さないのは、様々な欲望、執着心、不 安や不信、不満や怒りであるかもしれません。しかし、その最たるものは死への恐れ です。時にその恐れに翻弄されることがあるのです。この世で生きる限り、私たちを 強力に捕らえ離さないものは、死の恐怖なのです。 しかしキリストは、ラザロへの御業を通して、いかなる力も、私たち1人ひとりを 支配し尽くすことはできないということをお示しくださったのです。そしてその恵み は、父なる神さまが、御子キリストを十字架の死から引き上げてくださることを通し て、完全に示されるのです。 いかなる力も私たち人間を支配し尽くすことはできないという完全勝利宣言が、キ リストの甦りにおいて示されるのです。ラザロの甦りの出来事は、そのキリストの勝 利を指し示す出来事であり、マリアは、その勝利の恵みを信じることに生かされ、そ の下に真に自由とされたのです。 死よりも確かなことは、死に打ち勝たれたキリストの恵みのご支配があるというこ とです。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力 あるものも、・・・わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、 わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:38?39)のです。 そのご支配を信じ切るとき、もはや何物も私たちを支配しないのです。そこに立つ 信仰は、私たちひとり1人を、真の自由に生きる献身の歩みへと押し出すのです。
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