私たちの教団では聖餐式が乱れています。「開かれた聖餐」と称し、未受洗の人た ちにも聖餐にあずからせている教会があります。これは教団の信仰告白や教憲・教規 にも反し、教会の一致を乱す行為です。そこで教区では「聖餐の正しい執行について Q&A」を発行し、正しい知識をもつよう促しました。このことは皆さんもご存知の とおりです。 今日与えられた御言葉の核心はこの問題に触れています。教会にいる人々は全員、 神から招かれています。その招きから漏れている人はいません。聖餐に与る人と、 「未だ」与らない人がいるだけのことです。未だ与らない人々をも神は受け入れてお られます。パウロはここで、そのようにローマの教会の具体的な実情に触れながら、 その根っこのところにある、まことの基本的な事柄を詳しく諭しているのです。 教会には色々な人がいても、誰でもキリストのものなのだから、それを私たちが批 判したり、軽んじたりしてはならないというのがパウロの強調するところです。キリ ストが生きたのも、キリストが死んだのも、すべての人に対してキリストが主となる ためです。私たちはキリストによって買い取られ、所有されているという「しるし」 が刻み付けられているのです。その「しるし」が目に入らないと、私たちは迂闊にそ の人を軽んじることになってしまいます。 パウロはその「しるし」に目を留めることが大切であると勧告しています。洗礼は キリストのものであるという、消えることのない「しるし」を刻み付けることです。 聖餐式とはこのような洗礼の恵みを確認することで、聖餐のたびに、私たちはキリス トによって刻み付けられた「しるし」を確かめるのです。聖餐が洗礼の恵みの確認で ある限り、それは洗礼を受けていないと無意味だということになります。聖餐式が洗 礼を受けた人によって守られるのはそのためです。しかし、洗礼を受けていない人と いうことは、「未だ」洗礼を受けていないということです。 世界聖餐日は世界教会会議(WCC)によって定められ、教団もこれを受け継ぎま した。制定後今年は72年目です。一人びとりの洗礼の恵みを確認し、生きるにも、 死ぬにもキリストのために存在する信仰の命を聖餐において、まだそれに与らない方 々が主の前に信仰告白し、共に分かち合う時の一日も早からんことを祈り待ち望みた いと思います。
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