良いことと美しいこと、それぞれを判別することは容易です。しかし、両方同時に 存在する事柄を見出すのは容易ではありません。それは私たちの心を激しく揺れ動か し、印象深い記憶を残す出来事とします。 主イエス様はベタニアで一人の女性によって、純粋で非常に高価なナルドの香油を 注がれました。この香油は年収に匹敵するような高価なものでありました。この女性 は主イエス様を目の前にして、自分が持っていた最高のものを注ぎ捧げたのでした。 同席していた人々は否定的な反応を示しました。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いし たのか。」(4節)これだけのものを売ってお金にしたら、貧しい人々を助けること ができたのに。なんてもったいないのだ。それが彼らの反応でした。 しかし、主イエス様の評価はどうでしたでしょうか。6節でこう述べられています。 「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことを してくれたのだ。」この「良いこと」という言葉、他の訳では「美しいこと」とも訳 されています。もしかしたら一つの言葉で良くて美しいことを示そうとしているのか もしれません。 主イエス様はおっしゃいます。この女性が成し遂げたことは、ご自身の埋葬の準備 のためだと。そして9節でこう述べるのです。「はっきり言っておく。世界中どこで も、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだ ろう。」これは少し不思議な表現です。この女性が行ったことと、主イエス様の福音 とどう関係するのでしょうか。 恐らく、ここで意味されるのは、これから起こる、世界で最も良くて美しい出来事 との関連なのではないでしょうか。つまり、主イエス様の十字架の死と復活の出来事、 これこそが世界で最も良くて美しいことだということを示そうとされているのではな いかと思うのです。神が成し遂げた最も良くて美しいこと、それが私たちのために捧 げてくださった神ご自身の愛を最も良く表している十字架の死と復活であると指し示 しているのではないかと思うのです。 この箇所は不思議なことに、主イエス様に対して、この女性とは真逆の反応を示し た人たちのことが前後に描かれていることに気付かされます。同じ主イエス様と出会 い、言葉を聞き、奇跡を見てその力を体験しているにも関わらず、どうしてこのよう な正反対の応答が生じるのか。そのことを考える時に、私たち自身の主イエス様への 応答と姿勢というものも問われているような気がしてなりません。ご自身を私たちに 捧げてくださったこの主に私たちはどのように付き従うことができるのでしょうか。
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