ルカ20:42に「主は、わたしの主にお告げになった」とありますが、最初の「主」 は「主なる神」のことです。次の「わたしの主」とは、わたしの王ということです。 ここで主イエスが言われるのは、この詩篇110 編はダビデの詩であって、そのダビデ が、ここで「わたしの主」と呼んでいるのは「メシア」、すなわち「キリスト」のこ とです。皆が待ち望む救い主のこと。あの王ダビデが、あの時代に信じて、その「救 い主」の到来を待ち望んでいて、その「救い主」について歌った歌だと言われたので す。神に選ばれている自分たちの国が再建される時が来る、その時には、必ずあのダ ビデの王の血筋を引いた者の中からメシアとして現れると、そう信じていました。当 時の人たちが、そのようなメシア信仰に生きていたとして、主イエスは、それを共有 されたでしょうか。 当時この詩編を読みながら王ダビデすら待ちこがれた、まことの王があるのだと理 解しました。自分たちの現実を嘆きながら、メシア待望に生きたとおもいます。主イ エスは神の民の嘆きと希望を共有してくださったのです。キリストこそわたしである と、繰り返し語ろうとされました。そのようにして、まことの神の子が、まことの人 となっていてくださるのです。44節で「どうしてメシアがダビデの子なのか」という 問いで、そのまま終わっています。 そこで、使徒言行録にヒントがあります。冒頭から主イエスの昇天の記事に続き、 弟子たちは切なる祈りをし聖霊が降るのを待ちのぞみました。かくして神の霊は注が れ、弟子たちの心と目が開かれました。次いで、この主イエスの問いに対する答えが 出されたのです。ペトロの説教、それは、自分たちに何が起こっているかを語るもの でした。まだ怪訝な面持ちで、ダビデの子をめぐる問答を脇で聞いていただけのペト ロが、ここでは堂々と説教しています。使徒言行録2:36に「あなたがたが十字架につ けて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」とあります。 ペトロは「イエス」と言いました。他の誰でもない「イエス」が、今メシアとされ ている。ダビデの子ではないか。肉においてはダビデの子、肉においてはダビデの血 を受け、多くの人たちのダビデの子・救い主の望みを担ったのです。 主イエスは人々のすべての思いをこえて、全世界を覆い、すべての歴史を支配され る王となられました。
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