「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」罪深きイスラエルの民 に対して神さまはこのように憐みと希望の言葉をかけられました。「創造する」と、 神さまにしかできない再創造を約束され、人の思いも、生活も、そして全宇宙も完全 に新たにされるという信じ難いことをここで語られます。このことを聖書は「新しい エルサレム」という表現で描写します。エルサレムとは町を指します。人類は初めか ら町をつくりました。そうして力をつけ、自分たちの生活を安定させようと努めまし た。しかしその結果、バベルの塔という人間の罪を象徴するようなものを作り上げよ うとしました。後代においても、同じ試みは繰り返され、人間は自分自身の力で罪か ら解放されることはどうしても無理だということを、人類の歴史を通して知ることに なりました。しかし、神さまはこうした人間に対して、決して諦めることはなさらず、 「ここにいる、ここにいる」(イザヤ65:1)とご自身の存在、ご自身の力と憐れみ深 い恵みを示してこられました。 この「新しい天と地」とは、ヨハネの黙示録にも登場します。これは偶然ではない でしょう。この御言葉を聞く者誰もが、心から燃える灯を与えられるような内容です。 しかし、人間は決して自分自身の力と叡智ではそこには辿り着くことができません。 必要なのは、主イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天の揺るぐことのない出 来事であり事実です。この出来事によって、新天新地への道が切り開かれ、今、まさ にその完成へと向かっている途上に私たちは置かれていることを教えられます。 新天新地、それは、神さまがご自身の民と共に宿られるところです。ヨハネの黙示 録は、教会こそがその場所であることを顕示します。このことが私たちに迫り語って いるのは、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活が、私たちにこの希望を指し示 し、語り継いでいることです。過去の出来事が未来を確たるものとし、それをもって 「今」を捉え、生きよと、聖書は私たちに迫るのです。そう理解する時に、私たちは 眼前の状況だけにとらわれるのではなく、自分自身の生活にのみ集中するのではなく、 御言葉が示す真の喜びと希望を確たるものにしてくださった主イエス様へと私たちの 目を向けさせるのです。主イエス様が再び来られて、全てを完成させてくださるその 時まで、私たちは心を天に高くあげ、教会として、主イエス様を指し示すような歩み を、今週の日々の中でも歩むことが求められているのです。
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