イエス様は「その悲しみは喜びに変わる」と約束されました。この言葉は、イエス 様が、受難の前に、弟子たちに語られた教えでした。この状況に即して「悲しみ・苦 しみ」を見るならば、それは「あなたがたはわたしを見なくなる」とあるように、イ エス様が捕らえられ、十字架の死を遂げ、墓に葬られることにあります。また、広義 的な意味では、主の復活の40日後、天へと昇られ、歴史が完成する終末の時まで、天 の父なる神様のもとに行かれ、地上に目に見える形ではおられなくなるということで す。キリスト者たちが直面する、この世の人々からの無理解や迫害もここに含まれる でしょう。その苦しみの時に、私たちがもしイエス・キリストが不在であると感じる ならば、そこに望は感じられないのです。 対して、「喜び」について、イエス様は「わたしを見るようになる」ともおっしゃ っています。十字架から三日目にイエス様は復活され、そのお姿を再び弟子たちに現 されました。また広い意味では、天から聖霊が与えられ、キリスト者が地上に居なが らも天の父なる神様とイエス様とが私たち共に生きて働いて下さることを体験できる ようにして下さるということです。また、キリストが再臨される時に、イエス様が私 たちを天国へと迎え入れて下さるという喜びがここで言われています。イエス・キリ ストが確かに、地上を生きる私たちと共におられる。このことを感じ取る時に、私た ちは喜びで満たされるのです。私たちの求めに、確かに答えて下さる神様がそこにお られる。私たちの悲しみと、苦しみと共に神様がおられ、全てを見届けて、苦しみを 担っていて下さる。それが徒労として無駄に終わるのではなく、確かに新しい命を、 信仰という光を生み出してゆく、私たちの歩みであると、イエス様は私たちに約束さ れているのです。 「悲しみ・苦しみ」というのは本来だれもが避けて通りたい道です。いざ直面した時 に、神様は私を愛されていなのかと自問自答しながら、さらに苦しむこともあります。 しかし、主の十字架と復活によって、私たちに信仰が手渡されたことを思う時、独り 子をこの世に下さった神様の愛は、この悲しみや、苦しみも乗り越えさせて下さるこ とを知らされるのです。「わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えに なる…そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。祈りは信仰の危機を 信仰の転機へと変えます。誰も奪うことの出来ない喜びは、神様との繋がりの中で与 えられているのです。主は私たちと共に居て、私たちの地上での破れや弱さを抱えた 信仰に対して、み言葉で諭し、愛を満たし、永遠の命を備えていて下さるのです。
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