イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章11節) とおっしゃる前に、「わたしは羊の門である」(7節)、また、「わたしは門である」 (9節)とおっしゃいました。門や扉は外と中を分けるものです。イエスさまが門、 扉として、外と中を分けるところに立っておられるのです。 教会にも扉があります。礼拝堂の後ろには礼拝堂の扉があり、また、教会の建物の 中に入る扉もあります。教会だけではありません。私たちの家にも玄関の扉がありま す。 梅雨に入り、雨の日が多くなります。蒸し暑い中、汗をかきながら傘をさして学校 から家に帰って来ることが多くなります。濡れてしまった洋服や靴を、学校の帰り道 で脱ぐわけにはいきません。玄関の扉を開けて家の中で脱ぐのです。扉の中には、濡 れてしまった洋服や靴を脱いでもいいという安心があります。 玄関というのはとても不思議な場所です。その扉の中には、ありのままの姿をさら け出す安心があります。平安があります。それは、安心への門、平安への扉なのです。 イエスさまは「わたしは門、扉である」とおっしゃいました。イエスさまは、私た ちが自らのありのままの姿をさらけ出し、救いという真の平安の中に入るためへの門、 扉であるのです。 それは、私たちが、神さまが与えてくださる救いの中に入るためには、イエスさま を通らなければならないということです。救いは、そのイエスさまという門、扉を叩 かずにしてあり得ないです。私たちが神さまの救いの中に入り、足を踏み入れ、その 中に立ち、そして立ち続けるということは、イエスさまを信じることなしにあり得な いのです。 イエスさまは、その救いについて「わたしを通って入る者は救われる。その人は、 門を出入りして牧草を見つける」(9節)、「わたしが来たのは、羊が命を受けるた め、しかも豊かに受けるためである」(10節)とおっしゃいます。 イエスさまの言葉は曖昧ではなくとても力強いです。「かもしれない」とはおっし ゃいません。イエスさまを通してこそ「救われる」のです。「牧草を見つける」ので す。「命を豊かに受ける」のです。イエスさまという門、扉を通りその中に足を踏み 入れると、そこには私たちを生かす、豊かな真の恵みが備えられているのです。
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