人々は律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったので驚きま した。また、主イエスは今や神の支配が始まり、神の真理がこの世界を支配し、人間 を生かすとも語られました。 この言葉の権威が引き起こした出来事は人々の心を大きく動かしました。汚れた悪 霊に取りつかれた男を当時の人たちは、その霊を追い払えば男は救われると信じてい ました。ところが神の支配の権威に敏感だったのは皮肉にも悪霊でした。「汚れた悪 霊」は神の御心に添わない力。荒野でイエスを誘惑したあの悪魔の力です。そうした 力によって人間を支配しようとするのです。 私たちは悪魔の力から自由であるなどと思い込むところがあります。しかし、現実 にはあらゆる悪の力から自由でありません。皮肉にも神に対抗しているその汚れた悪 霊の力が敏感に、主イエスこそ自分の強敵であることを感じ取りました。神の聖者の 存在を知って悪霊は自らの居場所をなくしました。カファルナウムの礼拝が本当の礼 拝になったのは神ご自身が臨在し、汚れた悪霊に取り付かれた人たちを恐れさせる力 があったからです。主イエスが「黙れ。この人から出ていけ」と言われました。悪霊 は沈黙しました。もう、この礼拝においては悪霊が語る余地はありません。キリスト の名による礼拝は悪霊の存在を許しません。36節「人々は皆驚いて、互いに言った。 『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行く とは。』」とあります。人々は、ここで主イエスの「言葉」を讃えました。権威と力 がありました。この言葉が汚れた悪霊に勝利しました。礼拝で、ついに悪魔が追い払 われるということが起きました。人々が主イエスに期待したのは、それと同じことを 自分たちも、経験したいということでした。主イエスは、そのナザレの人たちの心の 中にある願いを呼び起こすように語られました。今そのことを私たちは、もう一度こ こで思い起こさなければなりません。カファルナウムの町での礼拝の様子を今のよう に辿っていくと、ますます、私たちの願いは強くなります。同じことがここに起こっ てほしいと。私たちも汚れた悪霊に捉えられていることを、否定することができない からです。それから自由になりたいからです。教会は聖なる霊に生かされています。 そして、この主イエスの宣教の業においても、主イエスが聖霊に満たされていたとい うこともルカは御言葉に記しています。
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