4月1日
2018年4月1日

「死は勝利にのみ込まれた」
ヨブ記 19:23-27 コリントの信徒への手紙一 15:50-58


 コリントの信徒への手紙1・15章全体は主イエス・キリストの復活が「初穂」とな

って、信じる者すべてに復活の希望が与えられたことを証しする壮大な章となってい

ます。復活についての信仰が、それなしには一切が無駄になるほどに肝心で重要であ

ることや、からだのよみがえりと言われる場合、それがどのようなことなのか、どの

ような体になることなのかについてかなり踏み込んだ形で明らかにされました。50節

以下は、わたしたちにとってその体の復活という事態がいつどのように起こるのかに

ついて語り、最後は、死に対する高らかな勝利を歌い上げます。

 ここでも不思議な言葉が語られます。「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と

言って、黙示文学的な情景を語るのです。「最後のラッパが鳴ると、死者は復活して

朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるものが朽ちないものを着、

この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」これはまさに経験か

ら出た言葉や現実を観察するところから出てくる言葉ではなく、上からの言葉、終末

からの言葉で、信じる以外にない言葉ですが、不思議な魅力、深い希望に満ちた慰め

があるのを感じます。ここで復活の様態として決定的なことは、「変えられる」とい

うことと「着る」という言葉です。復活の体はいまわたしたちが生きている体から変

えられて、朽ちる者が朽ちないものに変えられる、死ぬべきものが死なないものに変

えられるのです。また「着る」ということは、その変化は内からのもの、下からのも

のではなく、外からのもの、上からのものによって身にまとうことだというのです。

2コリント5:1〜5には「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神に

よって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」と語られています。

何を根拠にこのような未だ見たこともない神秘を語ることができるのか、それはひと

えに、神の御子であり、真の人の子である主イエス・キリストの十字架の死と復活と

いう出来事の故です。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるの

か。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と死に対してかくも大胆に語りうる信仰

は、主と一体となるところから来ます。「こういうわけですから、動かされないよう

にしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているなら自分たちの苦労が

決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」この言葉によっ

て今日も生きることへと派遣されます。

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