コリントの信徒への手紙15章12節以下は「あなたがたの中のある者が、死者の復 活などないと言っているのはどういうわけですか」と言う問いかけから、主イエス・ キリストの復活の出来事が単に主イエス個人に起こった奇跡的な出来事であるにとど まらず、それは主イエスのものとされたキリスト者の、いや、全人類に死者の復活の 道が開かれたことの「初穂」としての意味をもつことが強力に主張されます。「死者 の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と2度も繰り返して、キリ ストの復活と言う一回限りの出来事が死者の復活と言う普遍的な事態への道を開いた ことを明らかにし、そうでなければ、わたしたちの信仰は無駄、わたしたちの宣教も 無駄、わたしたちは神の偽証人となる、と言葉を重ねています。「そうでなければ、 わたしたちは今なお罪のもとにあり、キリストを信じて眠りについた人は滅んでしま ったことになる。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとしたら、わた したちはすべての人の中で最も惨めな者になると、わたしたちもキリストの復活に合 されるとの信仰がどれほど大切なものであるかを強調するのです。 ここで「復活」と言う言葉の厳密な意味を確認しておかなければなりません。 「復活」は「引き上げられる」と言う受動形の動詞で語られており、主イエスの復活 は主御自身のうちに内在する能力や可能性によって起こったことではなく、上からの 力と意志によって起こったこと、それは、人間の業ではなく神の業であることが確か められます。また、主イエスの復活は「死者の中からの復活」と表現されています。 それは単に「死からの復活」ではないのです。主イエスは、死者の痛み、悲しみ、空 しさ、恐れの全てを共有し、連帯して、「死者の仲間の中から」命へと引き上げられ たことを意味します。 これによって、わたしたちの生全体が生から死に至る不可逆的な命の行程、命の秩 序を根底から変えられて、死から命に至る道が開かれたことを明らかにします。主イ エスの十字架の死と復活の事態が終末論的な視野のもとに展開されるのです。パウロ はキリストの死は、「眠りについた人たちの初穂(the first fruit)」、「第二のア ダムとなった」と言う二つの比喩を用いて説明しています。「初穂」は神にささげる べき貴いものですが、またそれに続く実りはわたしたちの命を養うものとなります。 また、「第二のアダム」は第一のアダム、即ち人類全体の始祖に始まる罪の歴史その ものを全く新しくして、新たな人間像を生きる始祖となったとの意味です。
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