1コリント15章は主イエス・キリストの復活とその復活にあずかる信仰について 真正面から扱っている章で、キリスト者の復活の信仰はこの章なしには内容の薄いも のになってしまいます。パウロはペトロや12使徒など主イエスの復活に直接に出会っ た人たちのリストの最後に、「月足らずで生まれたようなわたしにも現われました」 と自分自身を加えています。これは、おそらく使徒言行録に記されている彼の回心の 出来事、キリスト者を迫害しようとダマスコに赴く途上、突然天からの光に打たれて 目が見えなくなり、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との主イエスの 声を聞いたことを指していると思われます。ガラテヤの信徒への手紙3:6−8や1 テモテ1:13−16にも記されており、教会の迫害者が主イエスの十字架と復活に よって示される福音の宣教者へと変えられたことを証ししています。しかし、パウロ のダマスコ途上の経験は主イエスの復活の姿に触れたペトロや他の証言者たちとは違 います。実際に復活の主の姿を見たのではなく、その声を聞いただけだからです。し かし、その出会いは幻想のキリストに出会ったのではなく、極めて人格的な、また、 現実的な出会いであったことは、パウロのその後の人生の歩みをみるとき、否定しよ うもありません。 パウロが主の復活の証言者として証言するその証言の仕方に注目したいと思います。 パウロは自分のことを、「月足らずで生まれた者」、「使徒の中で最も小さいもの」、 「使徒と呼ばれるに値しない者」、「教会を迫害した者」と言葉を重ねて、いかに自 分が不適格なものであるかを強調します。復活の主イエスに出会うには対極にある人 間であったことを強調し、「このわたしに現われました」と言っているのです。そし て「神の恵みによってこのわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた恵みは 無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働いてきました。しかし、 働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」とすべてを 神の恵みに帰しています。復活の主との出会いが「神の恵み」と言う言葉に置き換え られているのです。このように復活の主との出会いを証言する言葉に出会うとき、わ たしたちもまたそれぞれの人生の途上で主イエス・キリストの福音に触れてきた状況 と重なるものがあることに思い至ります。それは一瞬復活の姿や声を聞いたというよ うな一過性の体験ではなく、罪人であり敵対者であるわたしが、主の十字架に触れ復 活の事実に触れることによって、生涯にわたって伴う神の圧倒的な恵みの導きにあず かることであることを確認させられます。「わたしに与えられた神の恵みは無駄にな らず…」と語られますが、まさに、復活の主に出会うことは、わたしたちの人生全体 に対して突き付けられている「無駄」「空虚」「空っぽ」という大きな影に対して、その 影を飲み込んでしまう上からの大いなる光、恵みであることを思い知らされます。
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