パウロは「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と勧めます。 コリントの教会では「異言」を語ることが何か特別な神からの霊の働きの現れと考え られ、「霊能者」として重んじられ、教会の中で特別な地位を誇ったと想像されます。 「異言」とはメロディーのないままで笛や竪琴が演奏されるのにたとえられています から、激しい高揚と興奮の中で何を言っているのはわからないような祈りや叫びをあ げることで、今日でもカリスマ派やペンテコステ派の教会では異言を語ることが行わ れているようです。感情のコントロールを越えた異常な恍惚感の中で、神を賛美する 言葉が語られるのですから、その場にいる者にもその興奮が伝わり、集会全体が何か 日常生活とは隔絶された聖なる時と空間のようなものが生じることは想像できます。 それ故に異言を語るものが霊の賜物の保持者として教会の中で特別な存在として重ん じられたようです。「預言」は、み言葉に即して説き明かし神の福音の事実を明らか にし、それぞれの生活の中でどのように生かして行くかについて語ることで、今日の 教会の礼拝で行われる説教のようなことです。パウロは異言と預言を次のように対比 させます。異言は神に対して語り、預言は人に対して語る。異言は他の人には何を言 っているのかわからない。預言は他の人の理性に訴え理解できる。異言は霊によって 神秘を語り、預言は人にわかる言葉によって人の徳を立て、慰め、励ましと教えを与 える。異言は自分自身を益し、預言は教会を建て上げる、と。このように対比させて、 預言の賜物を熱心に求めなさいと勧めるのです。 「霊の賜物」は、預言や異言に限らず、キリストの教会のすべての奉仕の働きの本体 だとすれば、わたしたちの教会の礼拝や交わりに与えられている「霊の賜物」を、わ たしたちはどのように用いているでしょうか。信仰の交わり、宣教の働き、また礼拝 が自己満足のために用いられ、行われていることになっていないかが問われるのです。 スピリチャルなものへの求めは今日でも広く深くすべての世代に広がっています。そ れはまさに、自己の安心、自己評価の確立を求める以上のものではないように見えま す。それが全体の益になるか、またその賜物を愛に根差して隣人のために生かしてい るかが問われているのです。特に、預言の賜物によって「教会を造り上げる」ことが 強調されていることに注目しなければなりません。これは、わたしたちの教会にとっ ても、今、この時にあたって、心を一つにして熱心に願い求めるべき霊の賜物である のは確かです。
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