クリスマスを前にして、主イエスの宣教の先駆けとなったバプテスマのヨハネの働 きを注目するようにと、聖書日課は勧めます。マルコによる福音書も主イエスの生涯 を記すにあたって、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言う書き出しから直 ちにバプテスマのヨハネのことについて語り始めますが、ヨハネによる福音書も、ま た、「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言う荘重なプ ロローグの中で、「神から遣わされた一人の人があった。その名はヨハネである。彼 は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によっ て信じるようになるためである」と、ヨハネの存在と働きのことが記され、主イエス の存在と宣教の働きがヨハネの存在の意義と密接な関係があることを伝えています。 ヨハネ福音書が語るバプテスマのヨハネの働きと存在の意味は「光について証しする」 という積極的な表現と共に、「光ではない」といった否定的な表現を通して語られてい るのが特徴です。エルサレムからやって来た祭司たちや律法学者たちが「あなたはメ シアか」とか「エリヤか」とか、「あの預言者か」と問うのに対してことごとく「そ うではない」と否定しています。では誰なのかと問うのに対して、「わたしは荒れ野 で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えています。更に、ファリサ イ派の者たちが「あなたはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないのに、なぜ バプテスマを授けているのか」と尋ねると、「あなたがたの中にはあなたがたの知ら ない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物の ひもを解く資格もない」と、あくまで自分こそが期待されるメシア、最後の者である ことを否定することに力を注いでいます。ヨハネは一貫して、自分自身については否 定形を強調することによって主イエスの証しをしています。「主を待ち、主を証しす る者」の模範を示しているのです。 ヨハネの強烈な性格、強力な言葉は疑うべくもありません。荒れ野に叫ぶ声が人里に 住む人びとの心を覚醒させ、人々は荒れ野にまで足を運び、続々と彼から悔い改めの バプテスマを受けることになったのですから、その説得力たるや、まさに超人的です。 彼こそがメシア、あの預言者、と人々が期待したのは当然です。確かに、彼は神から 遣わされた人でした。しかし、ヨハネは「わたしはそうではない。わたしの後に来る 方こそその人だ」とまことの主の到来を持ち望み、間もなく到来することを告げ知ら せているのです。 わたしたちは神の子イエス・キリストにはなれません。その贖いの御業はキリストに しかできないからです。しかしヨハネのようになることは出来ます。彼もまた、わた したちと同じ人間なのですから。
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