11月26日
2017年11月26日

「いつまでも残るもの、信仰・希望・愛」
エレミヤ書 17:9-12 コリントの信徒への手紙一 13:8-13


「愛の賛歌」の第3の部分8節以下は、「愛は決して滅びない」と言う言葉に続いて、

預言や異言、知識と言った霊の賜物は一時的なものでやがて時の移ろいと共に必要で

なくなるもの、消え去るものであるのに対して愛だけは滅びることがないと、愛の重

要さを強調します。わたしたちの教会でのさまざまな奉仕も、一時的な、過渡的なも

のといつまでも滅びることのないものとの見分けが必要であることに気づかされます。

このことを語ったうえで、次の有名な言葉が続きます。「わたしたちは、今は、鏡に

映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わた

しは、今は、一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようには

っきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残

る。その中で最も多いなるものは愛である。」と。

「そのときには・・・」というのは、キリストの再臨の時、最後の審判の時であるの

は明らかです。「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と使徒信条に告白される時

です。そのときに「わたしがはっきり知られているようにはっきり知るようになる」

とはどういうことなのでしょう。わたしたちが生涯に犯したすべての罪を一点の罪も

見逃すことなく完全に知られている、そのことをはっきり認識させられる、と考える

と、その時はまことに耐え難く恐ろしいときとなります。主なる神がわたしたちを知

っておられるのは、わたしたちの主キリスト・イエスを通してであって、それ以外の

ものではないことをここではっきりと知らなければなりません。「洗礼を受けてキリ

ストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ4:17)と記

されているように、キリストの十字架に合わされたわたしたちは罪に死に、キリスト

とともに復活の命に生きているとの約束を信じ、洗礼にあずかりました。わたしたち

のこの世での生活は、果たしてその信仰がどれほど確かなものであるか、キリストの

命にあずかってどれほどの実りを表しているのか、まことにおぼろげで不確かのもの

です。しかし、そのときには、主なる神はわたしたちの罪にまみれた姿ではなくキリ

ストを着たわたしたちを見て、恵みの下で聖くされたわたしたちの歩みが何であった

かをわたしたちもはっきり知るようになる、と言うのです。ここに希望があり慰めが

あり、わたしたちの地上の生は何に向って生きて行くのかを確認させられます。

 このように、「いつまでも残るものは、信仰と、希望と、愛」と言われるとき、こ

の三つがわたしたちの中でどのように働くかをローマの信徒への手紙5:1〜5、コ

ロサイの信徒への手紙1:3〜6;1テサロニケ1:2〜4などと合わせて読むとよくわか

ります。信仰、希望、愛がどのような働きと結びついて語られているかに注目しまし

ょう。


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