「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せ ず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」 「愛の賛歌」と呼ばれるコリントの信徒への手紙一・13章は、「もし愛がなければ…」 と、どんな霊の賜物に恵まれてよい働きをしても愛がなければ何の役にも立たないこと を強調して、すべての奉仕の中で愛がなければならないこと、根源性が語られました。 これに続いて、愛がどのような姿で愛を具体的な行動において表すかを、愛を主語に1 5の言葉が列挙されています。興味深いことに、愛が何であるかを示すのに形容詞や名 詞ではなくすべてが動詞で表されていることです。「愛は美しい」とか「愛はやさしい」 とか、「愛こそ命」などではなく「愛は忍耐強くする」、「愛は親切にする」と、すべ ての単語は動詞形なのです。愛は感情や気持の問題ではなく、行動であること、しかも、 特別な行動ではなく、誰にとっても日常の他者との関係の中での心と体の行動以外の何 物でもないことが明らかにされます。 さらに興味深いことに、ここに挙げられている15の愛の行動のうち8つは、ねたまな い、自慢しない、など否定表現です。ねたむ、うぬぼれる、自慢する、自分の利益だけ を求める、悪意をもって人を見る、粗暴にふるまう、恨みを抱く・・・、ここで挙げら れている愛の欠如した行動は、これまでコリントの信徒の手紙を通して学んできたコリ ントの教会の中での具体的な行動と関連しており、ただ闇雲に言葉を並べているのでは ありません。そして、これらの愛の欠如した行動はわたしたちにもなじみ深く、すべて 愛の欠如した姿で、愛を求めながらも愛からは遠く離れた形で愛を思い、愛を慕う現実 が示されます。光であるはずの愛は陰においてでしか捉えられないという現実です。 この愛の賛歌で語られている「愛」を「主イエス・キリスト」と言う言葉に置き換え て読んでみて下さい。不思議なことに何の違和感もなくそのままに素晴らしい詩になり ます。今度は、この「愛」をわたしの名前に置き換えて読んでみて下さい。恥ずかしさ に消え入るようになるでしょう。さらにもう一度、「イエス・キリスト」に置き換えて みて下さい。ここに、罪を赦されてキリストのものとされたわたしの姿がここにあらわ されているのです。
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