10月29日
2017年10月29日

「最高の道・愛」
ホセア書 11:1-11 コリントの信徒への手紙一 12:31B-13:13


「そこでわたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たち

の異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、た

とえ、山を移すほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

全財産を貧しい人びとのために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡

そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」

 コリントの信徒への手紙1・13章は「愛の賛歌」と言われ、良く知られており、

多くの人が愛好する聖句の一つだと思います。しかし、ここでは愛とは何かの一般的

な定義を美しい言葉で並べているのではなく、12章から14章にかけて語られる

「霊の賜物」として、最高の「霊の賜物」として追い求めるべきものとして「愛」が

語られていることに注意しなければなりません。教会の中で教会の交わりが異言を語

ることを自慢するようなエキセントリックで無秩序なものに堕して行くことを正すた

めに、愛の大切さが歌われているのです。従って、ここで語られている「愛」は、人

と人の交わりの中で自然に互いに引き合うような男女の関係や友情、あるいは美しい

ものに対する愛とは違って、主イエス・キリストを通して神によって上から与えられ

るもの、まさに「霊の賜物」としての愛であって、この愛を追い求めなさいと勧めら

れているのです。

 その最初のところで「もし愛がなければ…」と言う構文で異言を語るにしても、預

言も、信仰も、あらゆるキリスト者の礼拝行為も信仰生活も、その根底に愛がなけれ

ばならないと語られます。このことを語るときパウロはこれを抽象的に「愛」を主語

として語るのではなく「わたし」を主語として、わたしの問題として語っていること

に注意したいと思います。「もしキリスト者に、とか教会に愛がなければ…」と言っ

た他人ごとではなく、わたしの行動、わたしの心のありかを問うこととして語ってい

ます。「人々の異言や天使の異言、山を移すほどの信仰、自らを死に引き渡すほどの

献身、これらはすべて私たちが信仰生活の中でかくあれかしと願う窮極の信仰の姿、

人間の普通の能力を超えた信仰的な資質と言えるものです。しかし、たとえそのよう

なものが与えられたとしても、それは「騒がしいドラ、やかましいシンバル」のよう

なもので、何の益にもならない」というのです。このように反省する中で、すべての

行いの中で愛の大切さ、愛の根源性に気づかされ、愛を求めるように促されます。こ

こで語られる「愛」を、「主イエス・キリスト」に置き換えて読んでみると、語られ

ていることがはっきりしてきます。それなしにはすべてが無に等しいことが・・・。


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