イザヤ書 1:10-17 コリントの信徒への手紙一 11:27-34
主の晩餐が正しく行われることを願って、パウロはわたしたちが聖餐式の時にいつ も聞く聖餐の制定の言葉を告げたうえで、「ふさわしくないままで主のパンを食べた り、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。…だ れでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べその杯を飲むべきです」と教え ています。ここで語るパウロの口調は断言的で厳しく、神の裁きが降ることを警告し て、聖餐が普通の食事の栄養の補給や交わりと混同されることを断じて許さない、軽 薄な仕方で聖餐にあずかることを阻止するという気迫が感じられます。 聖餐にあずかるに「ふさわしい」あずかり方とはどのようにすることでしょうか。 また、「自分を確かめて」、あるいは「わきまえて」、パンを食べ杯を飲むとはどう することでしょうか。聖餐にふさわしくないあり方は、コリントの教会の実例があり ます。礼拝に集まるとき「お互いの間に仲間割れ、仲間争いがあること」、具体的に は、集会に先に来た豊かな人々が勝手にパンと杯を分け合って、後から来る貧しい人々 への配慮をせず、聖餐がそのような人間中心の勝手なふるまいの時と場になっていた、 ということです。どうしてこれがふさわしくないのか、それは各自が自分のパンを食 べ杯を飲んでいるだけで、主のパンを食べ杯を飲んでいないからです。ということは、 パンを食べ杯を飲むことは、物質的な、また、目に見えるパンや杯を口にする時、そ こで食べ味わうものはパンでもぶどう酒でもなく、主イエス・キリストによってわた したちのために裂いて与えられた主御自身の体であり、「主の血によって立てられた 新しい契約」を飲まなければならないと言うことです。わたしたちの理性や感覚はた だ小さなパンと杯を口にし味わうことだけを認識しますが、わたしたちの心はそれに よって主の体と血を味わうこと、日用の糧を通して霊の糧を感じ味わわなければなら ないのです。ここにすべての人がふさわしくないあり方で聖餐にあずかる危険があり ます。目に見えるしるしを通して目に見えない霊の実在を見る、これは主の言葉への 信仰と霊の助けなしには起こりえないことです。 聖餐にあずかるときに「自分自身を確かめ、わきまえる」とはどうすることでしょ うか。パウロは弁えなく聖餐にあずかる者は裁きを招くと警告します。弁えには二つ の方向があります、「主の体をわきまえること」と「自分自身をわきまえること」です。 聖餐にあずかるとき、いつもこの二つのことを各自で検証しなければなりません。こ れも主の約束への信頼と聖霊の助けなしにはできないことです。
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