8月20日
2017年8月20日

「主の食卓を軽んじる者」

ゼファニヤ書 1:14-18 コリントの信徒への手紙一 11:17-22


 教会が様々な人間的な罪人の集団である現実から真に教会となるために「すべてを

適切に、秩序正しく行いなさい」(14:40)とのパウロの指示は、何よりも聖餐

の持ち方に対して厳しく迫ります。

 使徒言行録に記されているように、主イエスの十字架と復活、昇天、ペンテコステ

を経験した弟子たちは信仰の共同体として形成されてゆきますが、「彼らは使徒の教

え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とか、「家ごとに集

まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」と記さ

れているように、「パンを裂くこと」すなわち、聖餐の交わりをすることが礼拝の中

心でした。この礼拝の中心である聖餐の持ち方について、コリントの教会でのあり方

を問題にしているのです。「あなたがたの集まりが良い結果よりは悪い結果を招いて

いる」と。それは、お互いの間に「仲間割れ」「仲間争い」があるというのですが、実

際は意見の対立などではなく、「食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、

空腹の者がいるかと思えば、酔っている人がいるという始末」と言う事態があった、

と言うのです。現在のわたしたちの教会で行われる聖餐式は礼拝の中での聖礼典とし

て行われますので、ここで言われているような情景は想像しにくいところがあります

が、初代の教会では礼拝の時と食事の時とが混然としているなかで聖餐が行われてい

たのでしょう。問題は、その集まりで差別があったこと、時間の余裕のある豊かな人

々と奴隷や時間の余裕のない貧しい人たちとの間に「仲間割れ、仲間争い」の現実が

あったということです。

 パウロは、これでは主の晩餐を食べていることにはならない、と言います。この

「主の晩餐」と言う言葉が重要です。これは主のものである晩餐、主が招かれた人々

の集まりの中で主が供してくださる糧にあずかる晩餐、と言う意味で、この言葉が現

在わたしたちが使っている「聖餐」のサクラメントを表現する言葉の語源です。パウ

ロが問題にしていることの核心は、主のものである聖晩餐、主イエス・キリストは招

いてくださった仲間と共に、主イエス・キリストご自身を味わい、主イエス・キリス

トご自身の霊の糧にあずかるはずの晩餐が、各自が勝手に、自分たちの仲間と共に、

自分の腹を満たす食事に変っている、ということです。主イエスが招いてくださる仲

間は、「ユダヤ人もなくギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」そ

のような分け隔てが取り払われて、すべての人が招かれている仲間であるはずです。

主イエスの体と血にあずかる霊の食事が各自の欲求を持たす肉の食事になる危険は、

まさに教会の崩壊、キリストの教会が教会でなくなる事態です。


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