7月30日
2017年7月30日

「自分の利益ではなく他人の利益を求めよ」

エレミヤ書 7:1-11 コリントの信徒への手紙一 10:23-11:1


 コリントの信徒への手紙一は8章から11章1節まで偶像に供えた肉を食べるべきかど

うかという問題について論じられており、異教的な社会の様々な宗教的な慣習がある

中でキリスト者がどのように生きるかの問題が様々な角度から取り上げられてきまし

た。10章23節以下はその結論部分となります。この問題を論じるパウロの姿勢は

クリアカットに、それは断じて食べるべきではないというのでも、また、何の気兼ね

もなく食べても良いというのでもなく、どちらともとれる言葉が続きます。この箇所

のすぐ前のところでは、キリスト者が聖餐にあずかるときパンとぶどう酒にあずかる

のは物質的なパンやぶどう酒を飲むのではなく、キリストの血と体にあずかる霊的な

食物にあずかることだと説いて、偶像に供えたものを食べることは悪魔の食卓に連な

ることだと警告していました。ところが、この結論部分では、「市場で売っているも

のは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」とか、「あなたがた

が信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるもの

は良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言って、寛容な立場で

す。ただし、「もし、誰かがあなたがたに、『これは偶像に供えた肉です』と言うな

ら、その人のために食べてはいけません」と、その人の良心を傷つけないように配慮

することを求めます。

 このように具体的な状況で判断する場合、様々な状況に応じて判断しなければなら

ないこと、その判断は個々のキリスト者に任されているのです。その判断を導く基本

となることが、枠のように前後に分かれて語られています。「すべてのことは許され

ている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されてい

る。しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるのではない。だれも自分の利益

ではなく、他人の利益を求めなさい。」これが前の枠。後ろの枠は、「だから、あな

たがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すために

しなさい。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす

原因にならないようにしなさい」と。この前後の枠で囲まれて、ここでキリスト者の

行動原理となるべきことが示されているのです。

 キリスト者にとって「すべてが許されている」のは、すべての人に基本的な人権が

あるとか、それぞれの生き方は本人の自由に任されているということではありません。

主イエス・キリストの死と復活にあずかることによって死ぬべき罪人が赦されて、永

遠の命にあずかっているゆえに自由なのです。この神の愛に根差した自由の生き方が、

それぞれの自由な歩みの中で生かされなければなりません。


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