出エジプト記 16:9-16 コリントの信徒への手紙一 10:14-22
偶像に供えた肉を食べるべきか、食べるべきではないかをめぐって、コリントの教 会で議論となっていた牧会的な課題との取り組みが続きます。この社会の中でキリス ト者としてのアイデンティティーをどのように保つか、また、世俗化社会の中でキリ スト者はどのように信仰の証しを立てるか、わたしたちが日々直面している課題とも 通じ、考える示唆が与えられます。 新しい論点が示されています。キリスト者が礼拝であずかる聖餐のサクラメントの 意義からこの問題を考えるという視点です。 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。 わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだか ら、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 ここには、聖餐のことを「賛美の杯」とか「パンを裂く」と言った独特の表現で表して おり、この言葉が初代の教会の聖餐に与るキリスト者の姿勢や考えが深く示されてい る言葉として、その後の教会の聖餐理解に大きな影響を与えています。ここで、特に 「あずかる」と言う言葉がカギになっています。「あずかる」は「コイノーニア」と 言うギリシャ語で、「交わりを持つこと」、「分け合うこと」、「参加すること」な どのかなり広い意味を含む言葉で、聖餐の意義を考えるうえで極めて重要なことばで す。聖餐にあずかるということは、主イエス・キリストとの交わりの関係に入ること、 主イエス・キリストの生涯をかけて示して下さった真実と愛を身に受けること、とり わけ、十字架の死によって果たして下さった罪の赦しと解放の全ての成果を分け合う 仲間に入れられたこと、これらのことを「あずかる」という一言で表しているのです。 主が最後の晩餐の時に、「これはわたしの体」、「これはわたしの血」と言って、パ ンとぶどう酒の杯を弟子たちに分け与えられた、その弟子たちの仲間に加えられ、キ リストとの絆が結ばれたたことを意味します。従って、主の食卓にあずかり、賛美の 杯と裂かれたパンをいただくとき、そこで口にするのは物質的なパンとぶどう酒とい う地上的な物ですが、その本質は、霊的なもの、主の約束と祝福の確かなしるしです。 それによって、あずかる仲間との真の絆が生まれるのです。サクラメントのこのよう な意義を知っているキリスト者として、偶像に供えた肉を食べるという意義を考える 時、その肉も単なる食欲を満たす物、仲間と楽しく過ごすための手段と言うだけにす まない意味があることを理解することは容易です。「主の食卓と悪霊の食卓の両方に 着くことができません」、と。
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