詩篇 145 コリントの信徒への手紙一 10:12-13
「だから、立っていると思う者は倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲 った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方 です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、 逃れる道をも備えていてくださいます。」 このみ言葉によってどれほどの人が慰めと励ましを与えられ、死の陰の谷から生還 する経験をしたことでしょう。一言一言の命と力にあずかって、わたしたちの命が支 えられることを覚えます。このみ言葉が含んでいる多様な意味の広がりに注目しまし ょう。 「試練」は、苦しいことに耐えるかどうかの「テスト」と言う意味と、悪と罪への誘 い「誘惑」の両方の意味があります。からく苦い意味と、甘い誘いと、これが人の人 生に様々な影を落とします。「人間として耐えられないようなものはない」は、口語 訳聖書では「世の常でないものはない」と訳されていましたが、直訳すると「人間的 でないものはない」で、すべての試練・誘惑は人間以上の経験でもなく人間以下の経 験でもないということ、いわば「身から出たサビ」ということだとも解せます。ある いは自分だけでなく誰もが経験しうること、とも理解できます。確かに、試練に遭う とき、どうしてわたしだけが、と悩みますが、わたしだけではないことを知ることに よって慰めを感じることはあります。 しかし、この人間的なもの以上のものでないわたしたちの試練に、「神は真実であ る」との上からの確かな声が響きます。神の真実は、静止的なやさしさなどではなく、 イエス・キリストにおいて示される真実であって、罪人であるわたしたちのために身 代わりとなって命を与えてくださる「愛」です。しかも、それは遠い過去の、遠い場 所において示された真実ではなく、今、ここで、私において働く真実です。 神の真実は、わたしたちの試練の中でどのように働くか、二つの働き方が示されて います。「あなたがたを耐えられないような試練に合わせることをなさらない」と、 わたしたちの試練は底なしの淵のようなものではなく、神の管理のもとにおいてくだ さっていること、これが第一。それに、「試練と共に逃れる道も備えてくださる」と 言うのです。「逃れる道」は出口があると示すと共に、試練には「終わる時がある」 と、期限付きのことだということも示しています。
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