7月2日
2017年7月2日

「時の終わりに直面している者として」

出エジプト記 17:1-7 コリントの信徒への手紙一 10:1-13


 コリントの教会に中にある牧会的な課題として、偶像に供えられた肉を食べること

の是非が取り上げられています。様々な角度から長い論説が続きますが、この日常的

な問題についてキリスト者が考えるべきことは、いつもキリストとわたしの関係に立

ち帰り、神が主イエス・キリストを通してわたしたちにしてくださったこと、わたし

たちが罪を赦され自由にされ生かされていることに立ち帰って、それを隣人との交わ

りに生かされなければならないことが語られてきました。10章でも、「兄弟たち、次

のことはぜひ知っておいてもらいたい」という書き出しから、イスラエルの民が出エ

ジプトを経験した時に、神の特別な救済と祝福にあずかった出来事を列挙して、その

ような祝福にあずかったにもかかわらず、ほとんどの民が荒れ野で滅びてしまったこ

とから、「これらの出来事はわたしたちを戒める前例として起こったのです」と語り

ます。過去の歴史の出来事から現在のわたしたちが教訓を学ぶことはよくあることで

すが、パウロがここで展開している類比は奇想天外で、驚かされます。

 最初の驚きは、新約の民であるコリントの教会の人々に、「わたしたちの先祖はみ

な・・・」と古代イスラエルの出エジプトの出来事を経験した民との直接的な血縁の

関係に結びつけていることです。異国の古い物語ではなく「わたしたちの父」が神の

御前で経験したことなのだ、と。キリスト者はすべて旧約の民の子孫ということです。

 第二の驚きは、イスラエルの民が出エジプトの時に経験した、紅海を渡る経験、岩

から水を飲んだ経験、天からのマナによって食物を得て命を養われた経験と主イエス・

キリストの十字架の血で贖われ復活の命に生かされている新約の民が洗礼と聖餐によ

って養われている経験とを結び付けていることです。紅海を渡ったこと、岩から水を

飲んだことは「モーセに属するものとなる洗礼」に、マナやうずらによって養われた

ことは「霊的な食物」だったというわけです。

 第三の驚きは、これらのイスラエルの解放と救出の出来事が、救いと祝福の出来事

としてではなく、偶像礼拝をしたためにみんな滅んでしまった、という、神の祝福が

無駄になった歴史として描かれていることです。このように神の裁きと峻厳とが、こ

の例によって強調され、それは「時の終わりに直面しているわたしたちに警告するた

めなのです」と結論付けます。主イエス・キリストの恵みを安価に受けて放逸に生き

る者へ、洗礼と聖餐の恵みに立ち帰る促しと警告です。


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