イザヤ書 50:4-11 コリントの信徒への手紙一 9:19-27
「偶像に備えた肉」の問題を論じるところからパウロ自身の使徒としての行き方を 示す言葉が続きます。「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷に なりました」と、不思議な言葉が語られます。自由であることと奴隷であることとは 正反対のことですが、これは主イエス・キリストの福音の宣教者であるパウロの生き 方の真髄を示す言葉であり、また、宗教改革者ルターが力強く言い表したようにプロ テスタント的な生き方の本質を示している言葉でもあります。どうしてそのような生 き方が起りえるのでしょう。一言に自由と言っても、政治的な自由があり、経済的な 自由があり、心理的な自由がありと、様々な自由の形がありますが、いづれにしても、 自由があるところには解放があり、喜びがあり、充実がなければなりません。すべて の人に仕えつつ自由であることにどのような解放があり、喜びがあり、充実があるの でしょう。 パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない人には律法のない人 のように、弱い人には弱い人のようになった」と言います。「すべての人に対してす べての人のようになった。何とかして何人かでも救うためです」、と。ある人は、こ れをまるでカメレオンのような生き方と評しましたが、このような生き方で感じられ る自由、解放、喜びはどんな自由なのでしょう。 価値観が多様化している現代では、男であれ女であれ、何をしても自由、それぞれ の生き方を尊重すべきだとする風潮は日常経験することですが、このような自由さは、 むしろ自分のアイデンティティーをどこに置いたらいいのか、混乱と不安と抱き合わ せであることが現実の姿です。キリスト者が知るすべての人の奴隷となることによっ て味わう自由は多様な価値観の間を定見なく変幻自在に浮遊する自由とは異なるもの であることは確かです。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人に異邦人のようにな った、「福音のためなら、わたしはどんなこともします」と語る自由は、自分が感じ る自由や解放、自分を中心にした自由を後に回して、隣人の救いと自由を喜ぶ喜びの 方を取る自由です。「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」とパ ウロは言います。主イエス・キリストによって示された究極の自由の道に倣うことよ って、主が味わわれた自由に与る道がここにあると語るのです。
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