エゼキエル書 34:1-16 コリントの信徒への手紙一 9:16-23
教会の誕生を記念するペンテコステの出来事は、エルサレムに集まって祈っている 弟子たちの群れに聖霊が降って、「霊が語らせるままに他の国の言葉で語り出した」と いうことでした。自分の中にある言葉、自分の言葉で通じる枠を超えて、他の国の言 葉で語り出し、民族や文化の壁を超えて福音が地の果てまで広がってゆくという聖霊 がもたらす働きは、ペンテコステの日だけに起こった出来事ではなく、今に至るまで 継続している生きた働きであることに気づかされます。今ここで礼拝しているわたし たちの群れは、その聖霊の働きの最先端にいること、そして、ここから地の果てまで 主イエスの死と復活の証人となって遣わされてゆく兵站基地であることを覚えたいと 思います。 聖霊に満たされて言葉や文化の壁を乗り越えて地の果てまで主の証人となる事態が 一人の人の実存の事態としてどのようにとらえられているかを考える時、コリントの 信徒への手紙の中でパウロが語っている言葉にその秘密を知ることができます。パウ ロは使徒として召されて当然求めてしかるべき権利や許されている自由について語り ながら次のように語っています。「しかし、わたしはこの権利を何ひとつ利用したこ とはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それ くらいなら死んだほうがましです。…だれもこのわたしの誇りを無意味なものにして はならない。もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはな りません。そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは 不幸なのです。」「そうせずにはいられない」と非常に激しく強い促しが働いている ことを明らかにしているのです。その強い促しは自分の名誉や野心から出てくるもの でも、また、目の前にいる人の必要と要求から出るものでもありません。それは上か らの呼び出しであって、人間の中からの出てくる必要と必然に基づくものではなく 「地の果てまで証人となれ」と言う主の必然と命令によるものであることは明らかで す。パウロは他の箇所で「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(2コリント5:14) と語っています。「福音を告げ知らせないならわたしは不幸」と感じるのは、自分の 要求が満たされないからでもなく、また、福音を伝える対象の要求に応えられないか らでもなく、神からの求めに背くとき、どこまで行ってもその声が聞こえてくるから でしょう。
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