サムエル記上 2:12-26 コリントの信徒への手紙一 9:1-15
コリントの信徒への手紙1:8〜11:1は「偶像に供えた肉」の問題が取り上げ られています。初代教会が異教社会に宣教の輪を広げて行く際に直面しなければなら なかった最大の課題の一つでしたが、パウロは、知識に従って強力に自分の主張を通 すのではなく、弱い兄弟たちの事を考えなさい。「その兄弟のためにもキリストは死 んで下さったのです」と、キリスト者が日常生活の中で信仰と愛によって自由に生き る基本のあり方を示しています。 9章に入るとパウロの使徒としての権利や自由の問題が取り上げられていて、これ までの議論の筋が見え難くなくなっています。8章の偶像に供えた肉を食べるべきか 食べるべきでないかの問題と9章の議論をつなぐキイワードは、「権利」という言葉 です。8:9の「ただこの自由な態度が弱い人を罪に誘うことにならないように気を つけなさい」と語られていましたが、「この自由な態度」を支える「知識」は「権利」 となって、傍若無人に自由にふるまうという形に発展する事態を押しとどめて、別の 視点から自分自身の使徒としての権威・権力・権能をどのように現実の人間関係の中 で行使しているかについて語っているのです。この世は知識・情報を持つものが経済 を支配し、政治を操り、大いなる豊かさと自由を謳歌します。知識、権利、自由の連 鎖の中で格差社会が生まれます。キリスト者の信仰の知識も、また、此の世で、ある いは教会で、一種の力を持ち、大いなる解放と自由をもたらします。しかし、このキ リスト者の自由は、どのように自由と愛の共同体を生み出して行くことになるのでし ょうか。 パウロは、使徒として他の使徒と同じように食べたり飲んだりする権利、信徒であ る妻を連れて歩く権利、教会から生活の資を受けて生きる権利があることを主張して、 「使徒」として神に選ばれた者の特権的な権利や権威があり、それに伴う様々な実際 的な自由があることを延々と語りますので、何を言おうとしているのかが分かり難い ところがあります。最後に「しかし、わたしはこれらの権利を用いませんでした」と 三度も語って、当然与えられてしかるべき権利を用いないという形で独特の自由のあ り方を示しています。それは、伝道する中で「キリストの福音の妨げにならないため」 だ、と。キリスト者の信仰から来る知識が権利となり、誇りとなり、そこから解放と 自由を得ることに終わるのではなく、むしろ、そこからキリストの十字架に至る仕え る歩みに倣って、キリストの福音がもたらす自由を他者に与える働きに向うべきこと を教えているのです。宗教改革者ルターが「キリスト者の自由」において発見した自 由のありかがここにあります。
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