ハバクク書 2:9-14 コリントの信徒への手紙一 8:7-13
「偶像に備えた肉」の問題について、コリントの教会がパウロに指示を求めてきた のに対するパウロの回答は玉虫色の回答でした。ユダヤ人的な信仰と生活の習慣から は、それは汚れた肉を食べることであり決して許されることではないということにな ります。しかし、コリントの人々からすれば、異教の祭儀に供えられた肉といっても、 そのような祭儀に参加することも、祭儀の時に供される食事にあずかることも生活習 慣の一部であったし、主イエス・キリストによって律法の行いから解放されたキリス ト者は古い律法に縛られる必要はないと考える人々もいたでしょう。こうして、偶像 に供えた肉をめぐって同じ教会の中に分裂が生じ、裁き合いが生じている状況が見え て来ます。これに対して、パウロは、「世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神 以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」とか、「わたしたち を神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって何かを失うわけ ではなく、食べたからといってなにかをえるわけではありません」と極めてリベラル な立場を支持している一方、他方では、「食物の事がわたしの兄弟をつまずかせるく らいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と、 律法に従って生きる立場を固守しています。そのあいまいさの中でキリスト者の信仰 がこの現実社会の中でどのように真実と自由と愛を貫いてゆくかの判断基準となるも のが語られています。 パウロは「ただあなたがたのこの自由な態度が、弱い人を罪に誘うことにならない ように気をつけなさい」というのです。「この自由な態度」は原文では「権力・権威」 を意味する言葉です。知識を持つものがその権力・権威で自由を獲得し、支配するこ とに対して、弱い人が罪を犯す機会となり、滅びに導く力になることを気を付けるよ うにと注意するのです。「弱い人のつまずきを避ける行動原理」は教会の中でもよく 聞かれる論理です。しかし、それ自体が一つの知識であるなら、新しい律法、しかも、 極めて無責任な倫理となります。パウロはその原理の根底に「その兄弟のためにもキ リストは死んでくださったのです」という全く新しい判断基準があることを教えてい るのです。わたしの知識ではなくキリストの愛と自由の生き方に倣う新しい生き方が 示されているのです。
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