ルツ記 1:1-22 コリントの信徒への手紙一 8:1-13
コリントの信徒への手紙一8章〜11章1節では、新しい牧会的な課題が論じられてい ます。「偶像に備えられた肉」と表題がつけられていますが、これはユダヤ社会から ギリシャ・ローマの世界に宣教が広がったときにキリスト教会が最も頭を悩ました問 題の一つでした。地中海世界では異教の祭儀の中で神々への礼拝で燔祭として奉げら れた牛や羊の肉がその祭儀に参加した人々の祝宴で食されることが当然の事でした。 そのような共同体の食事に参加することは楽しみでもあり、また、社会生活の重要な 部分でもあったでしょう。ユダヤ的な伝統からすれば、このような肉は汚れたもので あり、これを食べることは戒めを犯すことになります。さらに、異教の神殿での祭儀 に供された牛や羊の肉は市場でも売られており、日常の食卓で肉を食べること自体が 罪となるという現実がありました。異教社会であるコリントに生きるキリスト者はど のように考えるべきであるか、この問題がここで取り扱われているのです。異教社会 の文化と習慣の中で少数者として生きるキリスト者が直面しなければならない問題と して、わたしたちにもそのような問題に直面した場合の困惑には思い当たるところが あるのではないでしょうか。使徒言行録15章にはエルサレムで最初の使徒会議が開か れたことが記されていますが、そこでは異教徒からキリスト者になった人々に割礼を 施すべきかどうかが論じられています。その結論は、割礼は施さなくても良いことに なりましたが、ただし、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、 みだらな行いとを避けること」が全教会に通達されました。従って、コリントの信徒 への手紙でこの問題を取り上げるとすれば結論は明らかであるはずです。ところが、 パウロの議論を注意深く読むと、単純にイエス、ノーで割り切っていないことに驚か されます。最初に語られることは、この問題を簡単に知識に従って切り捨ててはなら ないとの警告です。神は唯一であって偶像なるものは存在しないと信じて、異教の神 殿での共同体の食事に参加することに何の抵抗も感じない人々、唯我独尊のキリスト 者への警告なのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と。社会階層や民 族、文化の違いのある中で、信仰生活のあり方や考え方に違いがある教会で、大切な ことは自分の知識によってではなく他者への思いやり、それぞれの状況への共感こそ、 問題の解決の出発点だと教えるのです。
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