エレミヤ書 31:1-6 ヨハネによる福音書 20:1-18
ヨハネによる福音書20章21章には復活された主イエスが生きた姿をマグダラのマリ アや弟子たち示される様々な印象的な情景が記されていて、福音書では最も多くのエ ピソードに触れることができます。その一つ一つが復活の主に出会う驚きと深い喜び、 平安と慰めを与えられたことを伝えているのは当然ですが、それぞれに復活の主が独 特の使命を託されていることに気づかされます。 その最初に記されるのがマグダラのマリアとの出会いの情景です。朝まだ明けやら ぬうちに、主イエスの葬られた墓に行ってみると、墓石が取りのけられているのを発 見します。大急ぎでシモン・ペトロと主が愛された弟子のところに行ってそのことを 告げると、二人は競争するようにして墓に駆けつけます。彼らが墓に入って確認した ことは、遺体をくるんでいた白布と頭をくるんでいた布とが丸められて残されている ばかりで、遺体はないという事実でした。「それからこの弟子たちは家に帰って行っ た」のです。彼らは復活の主との出会いに至っていないのです。ただ復活の痕跡を確 認しただけで、それによって何の力も喜びも得ていません。まして、この出来事が全 人類に決定的な死への勝利を告げ永遠の命を約束する福音を地の果てまで告げ知らせ るようなエネルギーにはなっていないのです。未だ十字架の死の現実から一歩も出て いません。 マグダラのマリアは彼らが帰った後も、墓の前で泣いていると、墓の中に二人の天 使が見え、彼らが「なぜ泣いているのか」と問いかける中で後ろを振り向くと復活の 主が立っておられ「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いか けられます。マリアは主イエスを園丁だと勘違いして「あなたがあの方を運び去った のでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」と 滑稽な答えをします。マリアもまた「主イエスの死の圧倒的な現実に捉われています。 復活の現実に対して向き合えない人間のこうしたユーモラスな情景を重ねるなかで、 主イエスが「マリア」と名を呼んでくださることによって、やっと、目が覚めてイエス の足に縋りつき、「ラボニ」(「わたしの先生」の意)と言うに至るのです。主イエ スがマリアに託されたメッセージが重要です。「わたしの父であり、また、あなたが たの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわた しは上る」とわたしの兄弟たちのところに行って言うようにと命じられるのです。復 活の主の口から、ここではじめて「わたしの父、わたしの神が、即、あなたがたの父、 あなたがたの神」と語られるようになります。マリアは、「わたしは主を見ました」 という重要な情報を伝えると共に、今や、主を信じるわたしたちが父なる神との新し い関係に入ることになったことを伝える使命を託されているのです。
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