サムエル記上 16:1-13 ヨハネによる福音書 9:1-41
ヨハネによる福音書9章は生まれた時から目が見えなくて道端で乞食をしていた人 を見かけた主イエスの弟子たちが主イエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えな いのは、だれが罪を犯したからですか、本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ね たのに対し、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもな い。神の業がこの人に現れるためである」と言って、地面に唾をし、唾で土をこねて その人の目に塗り、シロアムの池に行って洗うと目が見えるようになったという癒し の出来事が語られています。主イエスの一言で障がいと重荷の捉え方が逆転し、これ を罪や不運として嘆くのではなく神の御業の現れる場、機会ととることに変える決定 的な言葉が語られ、多くの人に感動と転機を与える言葉となっています。ここから一 連の議論が始まり、その議論を通してわたしたちの中に潜む2つの種類の罪が明らか に描き出されていることにも注目したいと思います。 その1は、生まれつき目が見えないという障がい者を見た者が、これを本人の罪か それとも両親の罪かと問うことの中に潜む罪です。障がいのない自分と障がい者との 間に壁を設け、障害のある者の心や状況を罪のためと断じ、裁く者の位置に自分を置 き、自分を神と等しいものにしているからです。障がいや病、貧しさ接するとき、自 分には幸福を、他者には裁きと呪いを与える自分好みの神になっています。主イエス はこのようなとらえ方とは全く違う新しい生きた道を示し、実践しているのです。 第2の種類の罪は、この癒しを神の御業と捉えようとしない罪です。事実を事実と して認めず、癒されて目が見えるようになった人も、また癒しをされた主イエス御自 身をも罪人と断罪し、自分たちの社会から放逐するということへと展開する中であら わにされる罪です。まず、癒された人の仲間や隣人たちは、これが本人かどうかを疑 います。本人がそれだと言っても信じず、ファリサイ派の人々のところに連れて行き ます。彼らは安息日にこのことが行われたからといって、罪人だと断定します。神の 律法が神の御業をなしにするために用いられるのです。両親も、あいまいな逃げの答 えに終始します。こうして、神の御業は人間の世界ではなかったことどころか、罪人 による罪人に対する仕業になってゆくのです。 主イエスは、この見えるようになった人に再び出会って語られます。「わたしがこ の世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない人が見えるようになり、見え る者は見えない者になる。…今、見えるとあなたたちは言っている。だから、あなた たちの罪は残る」と。
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