創世記 12:1-4 ヨハネによる福音書 3:1-17
レントの季節、主の十字架の死と復活の歩みとわたしたちとの接点を知るために、 ニコデモと主イエスとの対話に注目するようにと招かれています。ファリサイ派でユ ダヤ人の指導者ニコデモが夜主イエスを訪ねて来て、「あなたが神のもとから来られ た教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさっ たようなしるしを、だれも行うことは出来ません」とエールを送ったのに対して、主 イエスは、「はっきり言っておく、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは 出来ない」と木で鼻をくくったような対応で、二人の対話はかみあわず、一向に深ま りません。結局、「どうしてそんなことがありえましょうか」とニコデモが言うのに 対して、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」 と、対話どころか対立のままで、奇妙なすれ違いの対話が記された後、聖書の中の聖 書と言われる「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を 信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」との重く深い言葉が語ら れているのです。一体この繋がりはどうなっているのか、と問いたくなるような不思 議な展開になっています。 主イエスとニコデモとの対話のすれ違いの原因は「神から来た者」をどう理解する かの根本的な違いから生じています。ニコデモは主イエスが行ったしるしを見て、神 から来た者と認識しています。これに対して主イエスは「アーメン、アーメン、まこ とに、まことに、汝に告ぐ」と何度も強調しながら、その認識では真に自分を理解し たことにならないと壁を設けられるのです。しるしを見て信じることについて「イエ ス自身は彼らを信用されなかった。それは、すべて人のことを知っておられ、人間に ついて誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心 の中にあるかをよく知っておられたからである」とこの話の直前に語られています。 主イエスは「新たに生まれるもの」「水と霊から生まれる者」でなければ神の国を見る ことは出来ないと語られますが、霊から生まれた者として認識すべきことは、モーセ が荒れ野で青銅の蛇を掲げたようなこと、すなわち、神の裁きのしるしを高く掲げて 人々の罪を贖ったものを見上げることによって癒されたというしるしです。明らかに、 ここで主イエスは十字架にはりつけられ高く掲げられている神の子を見上げること、 この「しるし」こそが神から来た者のしるしであることを示しているのです。したが って、「神はその独り子をお与えになったほどに・・・」の「与える」が意味するこ とは、罪人の罪を引き受けて裁かれ、死に引き渡されることとなります。一人も滅び ないで永遠の命を得させてくださる神の愛は、御子を人々の罪の身代わりとして死に 引き渡される神の愛以外のものではなく、御子を信じることは、十字架を見上げて生 きること以外ではないことが示されます。
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