ゼカリヤ書 8:7-13 コリントの信徒への手紙一 7:17-24
主イエス・キリストに結ばれて生きる生活のあり方として割礼を受けた者はその跡 を無くすべきか、反対に割礼を受けていない者は割礼を受けるべきかの問題、すなわ ち、ユダヤ人として生れた人はキリスト者になることによってユダヤ人としてのアイ デンティティーを捨てるべきか、反対にギリシャ人がキリスト者になることはユダヤ の宗教に同化することなのかの問題、さらに、奴隷であったものはキリスト者になる ことによって奴隷の身分から自由になることに努めなければならないのかという問題 と取り組んでいます。わたしたちの教会にはユダヤ人はいないし奴隷の身分の者もい ませんから、ここで取り上げられている問題は直接には関係ないことですが、問題の 本質は極めて重要です。キリスト者であることと自らを形成している民族性や社会的 身分の相違とをどのように折り合わせるか、あるいは差別や格差が広がる世界の中で キリスト者はどのように生きるかの問題とつながっているからです。驚くべきことに、 この大きな深い問題に対してパウロは同じ指針を示唆しています。「それぞれ神に召 された時の身分のままでいなさい」と。「割礼を受けている者が召されたのなら、割 礼の後を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていないものが召されたのなら、 割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟 を守ることです」と、何と大胆なことと驚くほどの自由と解放性が示されています。 ところが、奴隷であったものが召されたなら、そのことを気にしてはいけませんと、 奴隷の身分の留まることを勧めているのです。もっとも、この部分の解釈は伝統的に 大きく分かれていて、新共同訳では「自由の身になることができるとしても、むしろ そのままでいなさい」となっていますが、口語訳では「もし自由の身になれるとした ら、むしろ自由になりなさい」と反対の意味になっています。いずれにせよキリスト に召されたということは自由な身分の者は「キリストの奴隷」になったこと、キリス トに結ばれた奴隷は主によって「自由にされた者」だから、召されたままの状態で神 の前にとどまるようにというのです。 ここで教えられる大切なことは、キリスト者それぞれの人間性を深く規定する人種 や文化的な背景、あるいは社会的な身分とキリスト者として召されていることとが切 り離されているということです。神に召されることの決定性が強調されているのです。 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も 女もありません」(ガラテヤ3:27,28)と語られます。召された者として現実の社会に 生きるとき、隔絶と硬直化した中で生きるのではなく、「召されたままの状態」でいる ことができる。罪を赦され贖われて主に仕える者の自由さを生きることができるので す。
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