エレミヤ書 9:22-23 コリントの信徒への手紙一 6:19-7:7
コリントの信徒への手紙一・7章以下からはコリントの教会からパウロに宛ててい くつかの質問がだされており、それに応えるかたちでテーマが取り上げられます。7 章は、結婚について、また、男女の性の交わりについてかなり踏み込んだ言葉が記さ れています。初めに驚かされるのは、「男は女に触れない方がよい。しかし、みだら な行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫 を持ちなさい」と結婚の関係について極めて消極的な姿勢が語られていることです。 みだらな行いを避けるための必要悪ととられるようなことが勧められています。ここ から伝統的にカトリック教会などでは教会では独身制が信仰的な良い生き方として、 聖職者は独身に限るというような制度が生まれています。しかし、この言葉は独特の レトリックで、コリントの人々の中で主張されていた一部の意見を取り込んで、その 考えに理解を示しながら別のことを言っていると解釈すべきだとの意見が優勢です。 コリントの社会全体が性的なことに対して極めてルーズであることの反動で、性の衝 動や関係そのものを悪とみなし、それらから一切遮断することをもって霊的・信仰的 なことだと考える人々からのパウロへの質問がこのパウロの応答に反映されていると いうわけです。パウロ自身の結婚についての考えは「二人は一体となる」との積極的 な結婚の意義が根本にあることは確かです。 そのことを考慮したうえで、パウロがここで語っていることは常識的なことです。 「男はめいめい自分の妻を持ち、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と性的な関係 の中で生きる人間の正しい在り方を示したうえで、1)夫は妻に、妻は夫に務めを果た さなければならないこと、つまり「互いに与えあう責任関係」の中で生きるべきこと、 2)夫も妻も自分の体を自由にすることはできず、妻が、また夫が自由にすることが できる、つまり、そのような排他的・拘束的な関係に生きなければならないこと、 3)互いに合意の上で祈りのために専念する時を持つことは許される、と言ったこと です。これらの考えは現在の私たちにとっても当然のこととして受け入れていますが、 注目すべきことに、ここには夫と妻の完全な平等性・公平性が貫かれていること、ま た、体と霊とが二分されて考えられることなく、性の関係も人間の全体性においてと らえられ、キリストのものとされていることです。これは社会的な関係をいかに平和 を保って生きるかの問題ではなく、主イエスによって贖われた体をいかに栄光を現す ために用いるかの日常生活の具体的なあり方として語られているのです。
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