申命記 10:14-22 コリントの信徒への手紙一 6:12-20
コリントの信徒への手紙でパウロは主イエス・キリストに結ばれて生きる生き方に ついて、様々な具体的な事例を取り上げて語ります。6章後半に取り上げられるテー マは娼婦と交わりを持つことを良しとするキリスト者、そのようなみだらな行いを容 認するコリントの信仰者を相手にしています。「わたしにはすべてのことが許されて いる。しかし、すべてが益になるわけではない。わたしにはすべてのことが許されて いる。しかし、わたしは何事にも支配されない」とのキリスト者の自由の奥行を表現 する言葉は、そのようなキリスト者の外的な行動、すなわち、自分の体の用い方をめ ぐる議論の中から出てくるのです。 ここには二つの考え方が対決しています。「わたしにはすべてのことが許されてい る」という考えと「しかし、すべてが益になるわけではない。何事にも支配されはし ない」という考え、この対決はどの社会でも、どの時代でも繰り返されている対決の 構図です。個の自由と社会の束縛、自由を求める民衆と社会の秩序に固執する支配者 ・・・、しかし、「わたしにはすべてのことが許されている」と言う考えはキリスト 者にとっても信仰の核心から出てくる言葉です。わたしたちは誰も罪と死の法則にと らえられており、自分の力ではそこから自由になることは出来ないが、主イエス・キ リストの無条件・無償の贖いの死と復活によって罪を赦され自由とされた。そのこと をただ信じることによって救われるという信仰義認の教えから出る考えだからです。 信仰によって与えられた自由はどのように「自分の体」において用いられ生かされる か、このことをめぐって二つの考えが対立するのです。キリスト者の信仰と自由は霊 的な問題であって、この世のこと、つまり「自分の体」のこととは別であると考えて、 体の欲望のままに生きることを容認することに発展する考え、このような考えの人を リベルタンと呼びます。これに対してパウロは、「すべてが益になるわけではない」 と人間の理性に訴えると共に、キリスト者の独特の倫理を支える基本の考えを述べて います。「体はみだらな行いのためにあるのではなく、主のためにあり、主は体のた めにおられるのです。神は、主を復活させ、またその力によってわたしたちをも復活 させてくださいます」と。主の死がわたしたちと同じ人間の死であると共に、復活が 霊の復活だけではなく「からだのよみがえり」であることで、わたしたちの体もキリ ストの体の一部に合わせられ聖化されている、ここから自分の体の正しい用い方が決 まると。
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