1月1日
2017年1月1日

「彼らの苦難をご自分の苦難とし」

イザヤ書 63:7-9 マタイによる福音書 2:13-23


 「諸人こぞりて、いざ迎えよ」と讃美してクリスマスの時を過ごしましたが、この

世に来られてすぐそのあと主イエスをおそった出来事は恐ろしく不可解なことでした。

占星術の博士たちが帰ったあとユダヤの王ヘロデがベツレヘムとその周辺の2歳以下

の男の子を一人残らず殺させたというのです。この世はすべての民を罪から救うはず

の子どもの誕生をこぞって喜び迎えるどころか、この子どもを抹殺してしまおうとす

る暗闇が支配する世界であることが明らかにされています。この危険な状況を引き受

けて、幼子と母とを連れてエジプトに逃れ一命をとりとめたのはヨセフの働きにより

ます。

 ヨセフは許嫁のマリアが一緒になる前に身ごもったのを知ってひそかに離縁しよう

と思いましたが、夢の中で天使の知らせによってマリアの胎内にいるのは聖霊による

ものであることを知って、幼子の父となることを引き受けたのでした。この子こそ、

インマヌエル(神共にいます)のしるしであるとの言葉を信じたからです。そして、ま

た、ここで、ヨセフは夢の中でこの子の命を取り去ろうとする凶暴な権力に立ち向か

わなければならないという途方もない仕事を引き受けなければならなかったのです。

一介の大工に過ぎない自分が、一国の王の凶悪な欲望による危険な手から本当の自分

の子どもでもない子どもとその母とを守らなければならないと知らされて、ヨセフは

逃げ出すことをしません。ヨセフはすぐに立ち上がって「母と子を連れてエジプトに

・・・」と語られますが、この「連れて…」と言う言葉は「引き受ける」と言う言葉

が使われていて、ヨセフの決意と行為の内容がよく示されています。主イエスを十字

架に引き渡す人々の行為を表す「引き渡す」「裏切る」と言う言葉の反意語です。ヨセ

フのこの霊に導かれた信仰の行為、「引き渡し」ではなく「引き受け」によって、こ

の世に生まれたばかりの救い主の命は守られ、神の救いの計画がはたされることにな

ったのです。

 それにしても、不可解なことは、ここで救い主とその家族はエジプトに逃れ、命拾

いするのに、そのことを知らされず逃れることもできなかったベツレヘムとその周辺

の町々の2歳以下の男が一人残らず殺されたということです。しかも、これは神の計

画の中で行われたことであり、預言者によって語られていたことの実現であると言わ

れるのです。不可解、不条理といわざるをえません。神の義はどうしてヘロデの野望

を事前にくじかないのか。一人一人の命を惜しまれる神の慈愛はどうして子どもの命

を凶悪な手から守られないのか。この問いは今に至るまで世界に満ちています。激し

く泣き叫ぶ声、慰めてもらおうともしない深い嘆き、この世界の現実、暗い闇が最も

深まったところに、まさに、インマヌエルの主は立ち会っておられます。この子供た

ちの死と母の痛みと苦難の責任を負う者として。


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