イザヤ書 2:1-5 マタイによる福音書 24:36-44
「主の教えはシオンから、み言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多 くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は 国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を 歩もう。」 旧約の預言者イザヤのこの終わりの日について語られた預言はニューヨークの国連 本部に掲げられている聖句として有名ですが、まさに現代の世界においてアドヴェン トの時に聞くべき明るい希望の形、主の呼びかけです。わたしたちが造り出している すべてが殺傷と格差を生み出すことに向うのではなく、「打ち直されて」、主の平和 を造り出す道具となるような具体的なイメージがこの言葉によって触発され、この明 るい希望に向って歩むよう促されます。 これとは対照的に、主イエスが語られる終わりの日に向かう「時徴」は恐ろしく暗 く厳しいのです。エルサレムとその中心にある神殿は壊滅的に破壊され、戦争や、偽 預言者が次々に起こることなど社会崩壊が起こるだけでなく、そのような世界崩壊過 程において、キリスト者の遭遇すべき運命も明るいものではありません。世界宣教は このような環境の下で繰り広げられます。このような時の終局に「人の子」すなわち 救い主の到来が予告されます。人間の知恵や力ではどうしようもない大破局のはてに 人の子が再び現れ、飼い葉桶に寝かされた幼子においてではなく、天の雲に乗って大 いなる栄光と力を帯びて来られ、選ばれた者を呼び集められます。 問題は、これがいつなん時起こることになるのかは知らされていない、ということ です。だれも知らない。天使たちも、主イエスご自身も知らない。天の父だけが知っ ていることで、隠されているのです。様々な徴があるにしても、予期しないときに突 然終わりが来るのです。主は、このような終わりに向かって「目を覚ましていなさい」 「そのことをわきまえていなさい」と命じられます。どのように備えたらいいのでし ょうか。目を覚ましているとはどのようにすることでしょうか。「目を覚ましている」 ということは「非常な真剣さをもって今日という日を生きること」だとドイツの神学 者A.シュラッターは解説しています。いつ来るかわからない日に備えて目を覚まし ているためには、毎日がその日だと考えて生きることにほかならず、真剣に今日とい う日を生きること、今日の日を「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」 希望をもって生きる生き方ともつながってきます。キリストにあって思いがけない時 ではなく想定内の時となります。
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