10月23日
2016年10月23日

「主の日に備えて」

レビ記 18:1-17 コリントの信徒への手紙一 4:18-5:8


 コリントの信徒への手紙はコリントの教会の具体的な牧会的な課題を取り上げてキ

リストに結ばれて生きる教会のあり方を示していますが、その第二の課題は、「ある

人が父の妻をわがものとしている」と言う性的な乱れとその現実を黙認している教会

の問題です。「コリント行きは若者には勧められない」と諺になるほどに不道徳さに

おいて有名であったコリントの街の間でさえ顰蹙を買うような状態が教会で横行して

いたのです。パウロは激しい言葉をもって浄化を迫ります。この教会の姿勢を「高ぶ

っている」と繰り返し戒めています。「高ぶる」と言う言葉は「ふんと鼻であしらう」

というニュアンスが伝わってくる言葉が使われています。こんなスキャンダラスの事

態に対しても大したことではないとたかをくくっているのです。パウロはこれに対し

て「高ぶっている人たちの言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく

力にあるのですから」とか「わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエ

スの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者がその肉が滅ぼさ

れるようにサタンに引き渡しています。それは主の日に彼の霊が救われるためです」

と激しい言葉を使ってそのような人を教会から排除するように勧めています。

 ここに教会の戒規についての基本的な考え方が示されています。不倫の関係を悔い

改めることなく鼻であしらっている人を教会から排除してサタンに引き渡す、という

のです。「排除する」というのは、実際は聖餐の交わりに加わることを禁じること

excommunicationを意味します。このことは、キリストの名により、主イエスの力をも

って行われるべきことで、どんな人間の意思や力によるものでもありません。キリス

トの名と力は暴力的な力ではなく、愛と赦しと和解と執り成しに根差した力で、この

愛の力をもって、利己的・個人主義的な口先だけの信仰の生活を糺すのです。また、

この戒規は「あなたがたとわたしの霊が集まり」と記されているように、誰かの権威

者の意思によって行われるべきものではなく教会の共同の信仰の業として行われなけ

ればなりません。教会がキリストの体としての聖性を保つためには、使徒や牧者とい

えども単独の行為で行うことの危険を覚えていなければならないのです。さらに、こ

のような戒規、教会訓練は教会に連なる枝々が正しく結びあう「腱」の役割を果し、

乱れが教会全体に及ばないようにするという目的とともに、「主の日に彼の霊が救わ

れるため」との究極の目的が語られています。教会の戒規は、従って、罪を犯した者

を処罰し、その処置によってふたたび罪を犯さないように恥と恐怖を与えることでは

なく、主の赦しと愛のもとに立ち帰ることによって霊の救いと主の体の秩序を回復す

ることにあります。


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