10月16日
2016年10月16日

「絶えず祈りなさい」

エレミヤ書 31:27-34 ルカによる福音書 18:1-8


 主イエスは失望せずに絶えず祈らなければならないと教えられて、こんな譬えを話

されました。ある町に神を畏れず、人を人とも思わないような傲慢な裁判官がいまし

た。ところが、この町に一人のやもめがいて、この裁判官に自分のために正しい裁判

をしてほしいと願いますが、一向に耳を傾けてくれません。しかし、やもめは一向に

ひるむことなくしつこく何度も訴えてきますのでついに根負けしてしまって、「自分

は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかな

わないから、彼女のために裁判をしてやろう」ということになった、というのです。

この譬えを話されて、主イエスは、「まして神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人

たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と語られたのです。

 不思議なことですが、こんな不正な裁判官のふるまいを例に引いて、神の裁きのあ

り方を教えておられるのです。この裁判官がやもめの訴えに耳を傾けるのは、決して

裁判官としてあるべき公正と正義の基準に促されてではありません。弱い立場にいる

人に対する深い共感が動機ではありません。「うるさくてかなわない」という利己的

な理由で「裁判をしてやろう」と重い腰を上げるのです。神様の裁きがこんな不純な

動機で行われるとしたら、うるさいからとか、事なかれ主義で、かかわりたくないか

ら、という理由でおざなりの裁きが行われるとしたら、この世界はどうなることでし

ょう。

 もちろん、こんな不正な裁判官のような仕方で神さまの裁きがあることを主イエス

は教えているのではありません。しかし、こんな不正な傲慢な裁判官をロープ際に追

い詰めノック・ダウンさせるほどに自分の訴えを聞いて正しい裁きをするように激し

くせまるやもめの訴えの姿勢、これこそが失望しないで絶えず祈り続けることを学ぶ

べき姿勢だというのです。

 教会は「祈りの家」です。子どもも、大人も、祈りを学び、祈りを実践する場と時

をそなえています。わたしたちの祈りが自分のための祈りにとどまってそれ以上に深

まらないと状況の変化と共に私たちの祈りは終わります。神の国とその義を求めると

き、わたしたちの祈りの課題は尽きることがありません。また、だれに向って祈って

いるかがはっきりしないと、独りごとに終わってしまいます。失望せずに絶えず祈り

続けるために、罪にまみれた世界の中にあってもこの不正な裁判官のような形でやも

めの訴えが取り上げられることがあるように、確かな祈りの課題と主イエス・キリス

トの名による祈りによって確かな祈りの対象を信頼して祈ることへと促されます。


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