列王記下 21:1-15 コリントの信徒への手紙一 4:1-7
コリントの教会が党派争いをし、分裂している状況を癒すために、パウロは「十字 架の言葉」、「十字架の愚かさ」によって示される神の知恵に出会わせることによっ て、人間を誇ることの愚を悟らせ、キリストを主とする生きたキリストの教会へと立 ち帰らせようと努めています。人間を誇ることをしない生き方は、パウロやアポロの ように福音を伝え、その真理に導く指導者としての自戒も含めています。 「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計 画を委ねられた管理者と考えるべきです」(4:1)。ここで「わたしたち」というの はパウロ自身やアポロなど神の言葉の宣教者、教会の指導者、霊の導き手のことです が、彼らは「奉仕者」「神の秘められた計画の管理者」であると、二つの性格があるこ とを示しています。「奉仕者」は他の箇所では「下役」と訳されているように主人の 命令通りに動く仕える僕、その身分の低さのニュアンスが伝わってきます。「神の秘 められた計画の管理者」は直訳すると「神の神秘(奥義)の管理者」となりますが、 「管理者」は主人に仕える奴隷身分の者ではありますが、主人の全財産を任される責 任のある者。ここでは神の奥義の管理者ですから、主イエス・キリストの十字架と復 活によって人類にもたらされた罪の赦しと贖い、和解と終局の裁きと救済のすべてを 知る者として、そのことを伝え、また、その真理へと教え導き、確かにその希望を保 持する重要な責任を負っている者ということになります。僕、仕える者、下役として の性格と管理者としての責任と権威ある務めという矛盾した性格が神の言葉の奉仕者 にはあるというのです。この矛盾した務めをどのように果たすか、ここで多くの教会 で多くの伝道者と教会に集う者がつまずいている現実があることが思い起こされます。 管理すること、権威ある務めに心を奪われて僕であることを忘れている姿、また逆に、 僕であること、仕えることに流れて、語るべきことを語れない奉仕者の姿が、そこ、 ここ、に見出されます。 「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」とパウロは当然のことを 語ります。問題は何に対して、また誰に対して忠実であるか、ということです。目の 前の人を恐れ、人に喜ばれることに忠実である場合、また、自分の気持ちや考えに忠 実であることを誇ることもあります。「ですから、主が来られるときまでは、先走っ て何もさばいてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の 心の企てをも明らかにされます」この主の前で、終局の裁きを覚えて、忠実であるこ とが求められるのです。
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